悪魔の嗤い方


この世は広しと言えども、悪魔なんて存在をお目に掛かれるのは非常に稀である。知性のない魔物であるだとか、誰かの使い魔であるだとか、そういった「悪魔」と名前の付く化け物はよく目にするが、人との契約を求める純粋な悪魔、とりわけ上級魔族と呼ばれる輩はさしもの俺も数えるほどしかお目にかかったことがない。


だが現実は奇妙だ。
俺はこの長い生のうち、たった一人だけ純粋な悪魔の知り合いを得た。

――その悪魔の名を、シンドロームと言った。

「依頼があるんですけど」


珍しく朝早く起きた俺を待っていたのは、同じく珍しい部類に類する仲間の一言だった。
乾いた音を立てた窓枠が風に揺れている朝だった。天井の木目にはよくわからないしみがいくつも残って、部屋の中央で回るシーリングファンがゆっくりと冷えた空気をかき混ぜている。
目の前の優男は空色の髪の間から黒い角を揺らして己を見下ろしており、窓際に座り込む片目を隠した顔色の悪い術師の横、窓の外を乾いた毛並みの鼠が骨と皮ばかりになって走り去っていった。交易都市端の安宿は俺たちの安寧の場所だが、外から来た客にとっては異形の巣窟であろうことは想像に難くない。


「依頼があるのですよ、僕から個人的に!」

 

白い手袋で覆われる両の手が机に叩きつけられ、乗せられた食器類が派手な音を立てる。

隣で我関せずとばかりに宿の娘に入れて貰った飲み物を啜る契約者、橙から空色へと緩やかに色を変える短いくせ毛を揺らす小柄な少女――我がパーティの魔女、チェリアに視線で説明を求めるも、肩をすくめるだけだった。


「俺に頼みたい仕事があると?」
「そう! そうなのですよ!」


何やら手元を探っていたかと思うと、いつの間にか彼の手には一枚の契約書が握られていた。


「先日、たまたま入手したものなのですがね」


書面には悪魔との契約を求める旨と、その悪魔が使っているのであろう名前が記されている。悪魔文字で記されたそれを読み解くことはできず、なんと書いてあるのかと説明を求めた。


「永遠の美貌を手に入れるための契約です。代償は時間、ありきたりな契約ですよ。問題は」


男性の形を取っているにしては華奢な彼の手がある一点を指し示す。やはり悪魔文字で綴られたそれは読み解くことができない。

 

だが。

 

「契約のサインか」
「そう、ここには契約した悪魔の名前が記されています。シンドローム、とね」

 

ゆっくりと見上げる。彼の顔からはいつも浮かべている笑みが消えて、何一つとして思考が読み取れない。感情が突き抜けた奴ほど何を考えているのだか判別しづらいから困る。


「これは交易都市の花売りが後生大事に持っていたものです。もちろん僕はそんなことはしていません、何しろ今はチェリアちゃんだけで精いっぱいだから、ねっ?」
「お前が嘘をついている可能性は?」
「当然の疑問だな、デウス。だが今回に限ってこいつは潔白だよ、ボクが保証しよう」


黙っていた契約者が口を挟む。届けられた食事に手を付けながら視線で問えば、翡翠の眼がさも楽しそうに歪められた。


「なに、簡単なことだよ。コイツは契約するにあたって、ボク一人だけという制約を付けてしまった。悪魔にとって制約とは命以上に大事なものなんだ、制約を破るなんてことは基本的にできないのさ」


くすくすと年相応の少女のように笑ってみせる魔女の傍で、うっとりと悪魔が鼻の下を伸ばした。


「契約者に強い影響を与える契約ほど制約は大きくなる……コイツはボク以外と契約ができないように、わざとその制約を付けたのだけどね」
「つまりお前との契約がある以上はコイツに他者との契約は不可能である、となればシンドロームの名を騙った何者かが、契約を取り付けていたと?」
「あるいは本当に知り合いかもしれませんが、そこらへんは追及していけばわかるものです」


先程の表情から一転し、「忌々しい」と呟いた男の指先は机を叩いている。己の力を自負している彼にとって、自分の偽物が出た話は些か面白くないのだろう。
……そういうポーズをとっているだけなのかもしれないが。


「で、俺に依頼とはなんだ? 基本的な情報収集なら二人でもやれるだろう、わざわざ俺を巻き込むメリットはない」
「もちろん僕だって貴方に頼まなくてはならないのは非常に業腹ですが、そうもいっていられません」
「どういうことだ」
「悪魔とは往々にして己の正体を隠します。時には無垢な少女、時には老獪な老人、姿形が決まっているわけではないのでどこにだって出没するし、何処にだって逃げ込めるのです」


人差し指で額を抑えた青年は、芝居がかった所作で話を続ける。まるで舞台俳優のようだと思いながら出されたパンのひとかけらを飲み込んだ。


「僕が推測するに、こいつはかなりの数の人間と契約している。そいつら全員がヤツの味方では、さすがに僕一人で探し出して殺すのは荷が勝ちすぎます」
「つまり、同族狩りに俺たちを巻き込もうと」
「ええ! ええ! 話が早くて助かりますね」
にんまりとした彼を見てため息をつきたくなったがどうにかこらえた。
「で、依頼料は」
「そうですねぇ、僕のポケットマネーから千二百ぐらいは出しましょう。あとはまあ、ヤツが貯めこんでいる財宝に期待してください。相場より安いとこはほら、身内価格と言いますか」
「契約者殿の取り分は」
「なしでいいですよ。ふふふ、僕はこう見えても太っ腹ですからね」
「勝手に決めるな、ボクもそれなりに対価を求める」
「やれやれ……。依頼内容を確認させてくれるか、依頼主サマ」


食後のコーヒーに手を付けながら、いつも依頼人から話を聞くように彼を促す。


「僕の名前を騙り契約者を増やし続けている輩を討伐、もしくは捕獲すること。……あっ、捕獲したらその処理はすべて僕に一任くださいね」
「……捕まえたらどうするんだ」
「舌を抜き、手を削ぎ、生きていることを後悔させる」


感情の乗らない声で発せられた言葉を失笑で吹き飛ばす。この男の言う事をいちいち真に受けていては身が持たないし、なによりそれを止める気も起きない。

喧嘩を売った相手が悪い。


「あれっ反応が鈍いな……まあ、名誉棄損で訴えますよ! 平和的にね!」
「ああそうかそうか、好きにしろ。依頼料も出るし、依頼人が誰であろうと依頼だからな。俺たちは仕事をこなすだけだ、あとのことは知ったことじゃない」
「さっすがデウス様! その道のプロ!」
「やかましい」


目の前のカップは空になった。他のメンバーも続々と階上から降りてきた。窓際の術師に合図をして、今日の予定を告げる。


「へぇ、変な奴もいるんだねえ」
「同じ名前の子が何人もいるとかじゃないの?」
「この名前の悪魔が何人も居たら、一人ずつ縊り殺してますよ!」
「朝から物騒だな……」


依頼の話を聞いたメンバーの反応はやけに楽しそうだった。げんなりしている奴もいるが、いつものことだと恨みがましい視線を受け流す。


「シン、目星はついているのか」
「とりあえずヤツの契約者がいるであろう三つの場所はピックアップしてみました。そこから聞き込みなり脅しなりなんなりと」
「さっきから言動が不穏だけど……」
「自分の名前を軽々しく使われて腹に据えかねているのさ」
「契約者に情報を与えるかね」
「少なくとも契約は対面で行われます。契約者からヤツの魔力残滓が出れば儲けものですよ」
「なるほど。では一つずつ洗っていくとするか」


扉を開ければひやりとした空気が頬を撫でる。寒さで白くなった息を吐きだして、俺たちは曇天に覆われた薄暗い交易都市へと一歩を踏み出した。

 

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逃げる獲物を捕まえる際に一番手っ取り早いのは、罠にかけることだ。
シンドロームの推察した三つの場所、そのうちの一つである繁華街で女相手に金をバラまいていた男。元騎士であるという男は俺たちの――というよりも悪魔の顔を知っていたらしく、此度の訪問の目的を告げる前に脱兎のごとく逃げ出した。

そのまま見送るわけにもいかず、迷路じみた路地裏に逃げ込んだ奴を捕まえるため、俺と悪魔とで追跡を試みる、チェリアを含めた他のメンバーは捕縛する罠をこの先で展開中だ。そのせいか斜め前を駆ける悪魔は真面目に取り組もうという気が見えず、怯えて逃げ回る騎士崩れをからかって遊んでいる。


「あまり遊ぶなよ、ルートから外れたら面倒だ。俺は立案者からの小言を聞きたくはない」
「どんなことにも楽しみを見出したいのですよ、僕は」
「享楽的なのは結構だがな、真面目にやれ」
「はいはい」

 

不服そうな顔はそのままに、魔力によって上空へと舞い上がった悪魔は男めがけて急降下した。

怯えた男が逃げ込んだ細い路地には、黒く塗られた細い鋼糸が渡してある。追い込まれたことに気づかなかった哀れな男は、悲鳴を上げながら建物の間に釣り上げられ、それを眺めて悪魔が満足げに笑った。


「まずは一人目! さて、教えていただきましょうか。一体誰と契約をしたのか!」


教会の坊主共でさえ絆されるような笑みを浮かべたシンドロームが、その笑顔から繰り出されるとは思えない言葉と暴力的な手口で男の口を割らせようとはしゃいでいるのを見ながら、彼の主は先ほど友人の夢魔と一緒に買ってきたという焼き鳥(代金は俺持ちだった)を食べながら呆れている。


「いつもの事だがアイツはよくわからないね」
「長い付き合いだろうに」
「そりゃ付き合いだけ見れば、ボクがまだ一桁しか生きてなかった頃からの付き合いだけど」


チェリアは肩を竦めて食べ終わった串を路地へと放り投げた。「ちゃんと片付けろ」行儀の悪い少女に溜息をついて指を鳴らし、魔力によって発生させた炎が落ち行く木製の串を燃やし尽くして消える。


「いつ見たって、アンタのソレは便利だねえ。……アンタを食べればその力が手に入るのかい?」
「気が向いたときに試してみると良い。終わったようだぞ」


シンドロームは気絶した男に興味が失せたらしく、まるでごみを捨てるように地面へと投げだした。男の口の端からは血が流れ、腰に下げた袋からは泥が溢れている。


「ハズレです。どうやら僕と契約したと思っていたみたいですね」
「取り立てに来たと思われたか」
「そのようです、次に行きましょう。ますますもって犯人が気になってきました」

 

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二人目の契約者は高級色街の娼婦だった。通された部屋で気だるげに髪をかき上げた彼女は、その細い指には似合わないゴテゴテとした装飾の施された指輪を光らせて「ああいうのとは正反対だった」とシンドロームを指さした。


「ご丁寧な言葉だったけど、話はおもしろくなかった。でもウチが望むものは全部用意してくれる、って言うし、実際そうだったから契約した」
「名前は憶えているか?」


離れた場所で魔力残滓を探る悪魔と術師を横目で見ながら、意味のない質問をしてみる。


「シンドローム、って名乗ってた。ウチと会った時には仕立てのいい黒いコートを着てて、アンタと同じ赤い眼で嗤ってた。しばらくぶりの上客だと思ったけど、契約の話をしたらとっとと帰っていったよ」
「なるほど」


首を振った術師を合図に、目の前に差し出された果物には手を付けず席を立つ。


「もう帰るの?」
「立て込んでてな」
「そう。相手してくれ、って言われなくてよかった。アンタ、背中とか腕とかに変なのいっぱい連れてて気味悪いから」
「だろうな。前の奴は何を連れてた」


娼婦は人差し指を下唇に当てていたが、やがて思い出したのか少女のように首を傾げた。


「首の後ろにね、真っ黒な角の生えた山羊を飼ってたよ」

 

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「魔力残滓はゼロ。ですが有力な情報でしたね、真黒な角の生えた山羊ですか」
「黒山羊、坊主どもが好んで例えに出すお前たちのオトモダチだな。王道とも言っていい」


腹が減ったと騒ぐ他の仲間たちの要望に応えて近くの酒場に入り込む。丁度昼時であったが、運よく人数分の席をとることができた俺たちは、給仕に簡単な料理を頼んだ。


「あるいは己が悪魔だと思い込ませるための小細工かもしれませんね、契約には何も力がない。現に先の男が願った「金」や、娼婦の「望み」は十二分に魔術で再現可能なものたちばかりでした」
「金は泥をそう見せかけていただけ、娼婦の望みは他の連中からかすめ取ってきた盗品」


給仕が持ってきたエールを呷り、あげじゃがを摘んだ。隣の少女は口元が汚れるのにも構わず大ぶりの骨付き肉に齧りついている。目の前の優男はにんまりと笑って先を続けた。


「彼らが契約したと思っているのは、悪魔に対して一種の固定観念を持つヒトである可能性が高い」
「つまり」


後方でテーブルをひっくり返す音、誰かの怒号に負けじと大声を上げて仲裁に入る人物の胸元では、銀色の十字が輝いている。


「聖職者か」


骨が大きな音を立てて白い皿に投げ出された。

 

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静謐に満たされた聖堂には規則正しく木製のベンチが並んでいる。

贖い主は今日も微笑んでいるとも眠っているともつかない表情で眼下の人々を見下ろしていて、斜め前で熱心に祈っていた老婆はやがて顔を上げると足を引きずりながら聖堂を出ていった。あまり質がよろしくない木製のベンチに腰を下ろして、光をまき散らしているステンドグラスを見上げていれば、若い女が声をかけてきた。


「お祈りですか?」


白と黒の修道服に身を包んだ彼女は、まるでここに来るのが迷える子羊ばかりだとでもいうように微笑んだ。相手を安心させるような害のない笑顔だ。


「仲間がね」


そう言って前方を指さす。いつも被っているとんがり帽子を外したチェリアが、嫌がらせの為だけに祈る真似をして従者の表情をしかめさせている。


「冒険者の方?」
「そうだよ、よくわかったな」
「よくお見えになるのですよ。命のやり取りをする方は、神に縋りたくなることが多いのでしょうね」


彼女はそう言って実に聖職者らしい所作で十字を切った。


「貴方も祈っていかれませんか」
「生憎だな。宗派が違うし、俺は俺を崇めるわけにはいかないんでね」


女は怪訝な表情を浮かべたが、あまり気にしないことにしたのか「そうですか」とだけ言って祭壇の方へと去っていく。その背中に声をかけた。


「なあシスター。お前なんだろう、“シンドローム”は」


ひたり、と足を止める黒い背中はゆっくりと振り返る。双眸は俺と同じく赤い。


「なんと?」
「いやね、最近シンドロームって名前で契約をしている奴がいるんだと」


手にした花売りの契約書を広げて見せれば、シスターは眉を顰めた。


「祓魔のご依頼ですか? 今ちょうど祓魔師は皆出払っていますから、また後程」
「誤魔化すなよ、シスター。アンタも祓魔師だ」


祈っていたチェリアが立ち上がり振り返った、傍に立つ悪魔は口元を釣り上げて嗤っている。


「ええ、ええ、僕としたことがうっかりしてました。つい先月でしたかね、僕らを退治しようと、ある祓魔師の一団が依頼帰りに襲ってきたのは」


襲撃は雨の降る夜半に行われた。降りしきる雨のせいで仲間の鼻も利かず、夜目の利く斥候役が辛うじて気づく程度の暗闇。

襲撃者たちは皆胸元に銀色の十字を携え、口々に「神の名の下に」と言いながらこちらを殺そうと、黒いフードの下で血走った眼をぎらつかせて襲い掛かってきた。


「数人ほどは良い夜食になりましたが……その際一人だけ逃してしまった。しかも、あろうことか僕の名前と正体まで知られたまま!」


腕を広げた悪魔が一歩進めば、祓魔師は二歩後退する。両手が素早く袖に隠れたかと思うと、彼女の両手には細身の銀剣が左右三本ずつ握られていた。


「一連の契約騒ぎは、僕をおびき出すためのものですか」
「そうよ。悪魔ってのは傲慢で、自分勝手で、自分がこの世の誰よりも偉いと思い込んでる奴らだから、自分の名前を使われたって聞いたら怒りに狂って飛んでくるって」


薄霧がかかったかのように静謐だった聖堂は、少女の哄笑で満たされた。


「散々な言われようじゃないか!」


うっすらと目じりに涙を溜めた少女は歪み切った唇を吊り上げ、対照的に口の端を引き下げ表情を歪ませたシスターは、銀剣の切っ先をシンドロームへと定めた。


「お前たちに仲間を皆殺されて、私にはもう復讐しか残っていなかった!」


女が片手を上げれば聖別された短剣を持った祓魔師たちが一斉に暗がりから現れてこちらを取り囲む。

他の仲間たちは外へ残してきたので、十数名の彼らと対峙する者は今この場に三人しかいないが、目の前で笑い転げる魔女とそれに従う悪魔は実に楽しそうにシスターを見据えている。


「だから僕をおびき寄せて退治しようと? 愚かですねえ、実に愚かです」


くわりと赤い口が開く。心底愉快だとでもいうように青白い目が歪んで、人形のように生気の感じられない虹彩に女の姿を映した。


「ちょうど腹も空いていますし。今日は良い日になりそうですね」
「ほざけっ!」


投射された銀剣を手元の刀で叩き落した悪魔は大きく跳躍し、祭壇へと飛び上がって結界魔法を発動させる。

魔女は白い槌をどこからか出現させると、襲い掛かる祓魔師たちを次々と吹き飛ばし、彼らはベンチもろとも壁に激突してその命を散らした。こちらにも襲い掛かってくる祓魔師たちの短剣を避けながら、手にした槍斧を構える。


「神の庭だ、血で汚すのはあまり気が進まないが」


手ごろな祓魔師の足に獲物をひっかけて転ばせ、その心臓を一刺しにする。赤く流れる血だまりを踏まぬように気を付けて、次々と襲い来る彼らの頭部を吹き飛ばし嘯いた。


「俺は”かみさま”だからな、許しなど必要ない」


贖い主の頭上で悪魔が高く哄笑していた。

 

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「また過激派のカルトが場末の教会に押し入ったらしいな」


次の日、俺が目覚めてカウンターに座り込めば、朝刊を読んでいる宿の親父が朝食の入った皿を押し出しながら世間話をしてきた。

俺はと言えば皿の中の目玉焼きに何をかけるかを必死に思案していたのだが、隣に座った少女が手を伸ばして勝手に塩をぶちまけたので、しぶしぶソレを口に運んでいる。付け合わせの葉物野菜にまで塩がかかっていて、塩辛いそれらに閉口する。


「物騒な世の中だな」
「全くだよ、なんでも聖堂内に爆弾のようなものが投げ込まれて、中に居た関係者たちは皆死んじまったとさ。中には損傷がひどいのか、遺体そのものが吹っ飛んじまったとか……教会で信者たちに人気のあったシスターの遺体も、まだ見つかってないらしい」


窓際で船を漕いでいた術師がくしゃみをして、足元の狼が心配そうに鼻を鳴らしている。酷い時代だと嘆く親父に「ごはんちょうだい!」と仲間が声をかけた。

待ってろ、と言いおいて親父は朝刊をカウンターに投げ出し、用意していた朝食を彼らの前に押し出したが、しまったという顔をして少女とその隣に座る優男を見た。


「すまん、チェリア、シンドローム。うっかりしておった、お前さんたちの分を作っておくのを忘れた」


すぐ用意する、と慌てた様子の親父へ、こともなげに少女は言う。


「ああ、ボクは要らないからね、構わない」
「実は昨日の夜、二人そろって出先で食べ過ぎまして……飲み物だけお願いできますか」
「そうか? 悪いな……」


詫びのつもりか、普段なら出さない高級品のコーヒーをいそいそと淹れる親父を横目に、シンドロームは朝刊を手に取る。


「本当に、ひどい話ですよねえ……」


傷ついた小鳥のような声を上げて、死者を悼む悪魔の眼は愉快げに細められていた。