愛してくれなきゃ泣いてやる


ほんの冗談のつもりだった、もちろん。

 

愛してくれなきゃ泣いてやるなんて、脅しにもならないような脅し、否、告白をする程度には酔っていた。目の前のカップの中身は恐ろしい回数で減ったり満ちたりを繰り返していて、あたしはそれを数えることすらできなくなっていたと言えば、すっかり酩酊していたってことがわかるだろう。

 

だから言った、ほんの少しのセンチメンタリズムと、諦念と恋情と執着とそれからありったけの勇気を、酔っぱらいの笑い声と話し声、そして誰かの罵声が満ちる喧騒の中であれば、なんのてらいもなく言えるはずだと信じ切って。明日には終わってしまう毎日の思い出を少しだけでも長引かせたくて。何を勝手なと怒られるかもしれないけれど、でも、最期の思い出ですもの、少しくらい我儘を言って困らせてもいいじゃないか、なんて言い訳を心の中で並べながら。

 

先程の台詞を向けた相手――つまりあたしの想い人で、大事な人で、あたしの全てを持っていってほしいと勝手に願っている相手は、黒く縁どられた切れ長の目を緩やかに丸くしてあたしを見ている。と思ったら、手にしていた揚げじゃがを取り落として、それにすら気づかずにしばらく固まっていた。せっかく娘さんが気を利かせて出来立てを持って来てくれたのに、このままでは冷めてしまうだろう。

いつだって冷え切った内面を持っている彼が、こんな小娘の言葉ひとつですっかり狼狽えてしまうのが嬉しくて呼気を震わせる。

窓辺には朝から降り積もった雪が溶けもせずに残って、宿の照明に照らされた薄暗い店内は陰影を濃く映し出していた。

 

 

彼の名をレベリア・ローレンツ・エーベルハルトという。

 

 

暗く冷たい魔術を繰りながらも、同時に誰かを癒す手を持つ彼は、元は大陸の由緒正しき貴族だったのだと聞いた。ヒトが忌み嫌う死や闇を魔術の友とする彼の家は、名門オズヴァルド家の繁栄の影にいつも潜みその敵を屠る、いわば暗殺などを担う立場だったと自嘲気味に語った彼の、疲れた横顔を覚えている。

 

彼はヒトを殺し続ける家業を嫌って生家を飛び出し、ヒトの命を救う医者を始めたのだという。ある大きな城下町で開業していたとか。それがなんだってこんなやっすい場末の宿屋で冒険者なんかやってるんだか、あたしには全くわからないけれど、まあきっとこの場所には何か面白いことがあったのだ、たぶん。あたしもそのひとつになれていたらいい。

 

そんなことをつらつらと考えていれば、呆れたような声が降ってきた。

 

「……酔っているな、お前」

 

子供を叱る母親のような表情をしたレベリアさんが、ため息をついてあたしのカップを取り上げる。

 

そうはさせまいと彼の手ごとカップにしがみつき、節くれだった指に手を添わせてもう一度繰り返した。愛してくれなきゃ。触れた手が冷たかったのか、少しだけカップを持つ手が止まって、あたしはこれ幸いと言葉を重ねていく。

 

「愛してくれなきゃ泣いちゃいます、本気ですからね」

 

「ああ、わかった、わかった。もう寝なさい、お前は飲みすぎだ。ほら、部屋まで連れて行ってやるから」

 

「いっつもそうやって子ども扱いするんですもん。……ひどいです」

 

眉根を寄せて寂しげに言ってやれば彼は言葉に詰まる。随分前に隠すのを諦めた恋は態度と瞳によって雄弁に語られるはずで、恋情に染められた視線で恨めしげに睨み上げてしまえば、ますますもって何も言わなくなるのをあたしは知っている。

 

「(我ながら浅ましい)」

 

内心で自嘲しながら、酔った頭で思いつく限りの不満をぶつけた。不満と言うより、単なる愚痴のようにもなってしまうが。

 

「知ってますよう、あたしが子どもだってことぐらい。レベリアさんの相手が、他に何人もいることぐらい。でもこーんなにだいすきなんですもん、すこーしだけでも愛してくれたっていいじゃないですか。せめて言葉にするぐらいはしてくれたっていいじゃないですか」

 

「まるでわけがわからん」

 

「子どもを愛するのが大人の役目ってやつですよ」

 

「そういう話ではないだろう。頼むから寝てくれ」

 

「やーです」

 

ふい、と掴んだ手をそのままにそっぽをむく。彼のことを親愛の枠を飛び越えて好いていると伝えてからというもの、もはやこんなやり取りなど珍しくはなく。大概はあたしが眠気に負けて折れるのだが、今回は意地の方が勝った。

 

面と向かって言わずに逃げ出そうとする年上の恋人を捕まえようと、恋慕だけで酩酊の夜に溶けていく。もちろん彼の気持ちは十二分に理解しているし、その気持ちを疑ったことなど微塵も無いのだけれど。

 

「リーゼ」

 

ふと彼の手が頭を撫でる。

 

「そんな顔をするな」

 

横目で伺えば困ったように目尻を下げて笑う彼の姿が目に入り、その暖かな手に鼻を鳴らした。しがみ付いていたカップを罪悪感に手放してしまえば、もう繋ぎとめるものは何もない。

 

「……ごめんなさい、困らせるつもりは……なかったとは言えないですけど」

 

あたしの決して触り心地が良いとは言えない(とはいえセティは好んであたしを撫でるのだ)髪をかき混ぜ、頬に滑り下りる暖かな手にすり寄って最大限にあまえてみせる。乾いた木の根を彷彿とさせる荒れた指先と縦にひび割れた爪、吊り気味の濃いアメジストが心配なのだと告げていた。

 

この人はどうしようもないほどあたしに甘くて心配性で、その事実は心の裡側を滑らかな指先で撫でてくる。だからこそ、古から続くあたしの中に流れる血と因縁には巻き込みたくなくて、何も告げずこの人を置いていこうと思った。そう決めたのは自分のくせに、彼と離れたくないのだと、あとほんの少しだけでも一緒に居たいのだと駄々をこねてしまうのは、あたしが弱いせいだ。

 

朝が来てからここを離れて、目の前の愛しい人を置いていっても、この人はきっとそれすら飲み干して生きていける。それはあたし自身が一番望んで願っていることだ。どうか幸せになってください、貴方のことを永遠に忘れられない誰かの事はどうか忘れてください。血を吐くようなその願いはいつだって心の澱んだ隅の方にぽつりと取り残されている。

 

どんなことが起ころうとも、赤い糸を結んだ小指を腕ごと切り落としてでもあたしが守ると決めたのだから、置いていくことを後悔することなどできない。

 

しばらくすり寄ってあまえていれば、困惑した声が頭上から降ってきた。

 

「……お前は、言って欲しいのか」

 

疑問ではなく確認。長い前髪に隠れそうな、揺れる紫苑の眼が恐る恐るといった表情をするものだから、あたしは思わず笑ってしまう。

 

「もちろん」

 

何を怯えているのだろう、何を心配しているのだろう。言っても何も壊れないのに、君を想う気持ちは何も変わらないのに、それでも臆病に手を伸ばすのを躊躇する彼をたまらなく愛しいと思った。