恋は歌えど詩人になれぬ


あんなに優しくされたら勘違いしてしまうのだ、と娘は言った。

 

あの人は誰にだって優しいし献身的であるのだと身をもって知っているから、夢はみないように、思いあがらないようにと必死で己を嗜めている。いけない、この人は誰にだって優しいのだ、そうに違いない。己が特別なわけじゃないのだから、少し優しくされただけでこの想いが届いたなんて、そんな都合のいい妄想は、身勝手な恋慕は捨てなくてはならないのに。

 

「捨てなきゃいけないんですけど全然だめで……あたし、どうしたらいいんでしょう……」

 

という相談を受けたランドルフは思わず「知るか!」と叫んで酒を呷った。飲まなきゃやってられないこのご時世、時には思い切りも諦めも必要ではある。が、そうはしたくないと駄々をこねるのも、やはりヒトの性なのかもしれぬ。

 

仮に、娘の言う通りに、あの男が誰にでも優しく救いの手を差し伸べる、いわば聖人のような男であったとしよう。そんな男がわざわざ宿の誰も起きていない時間に早起きをして郵便受けを漁り、ある人物に宛てられた熱量のある手紙をまるで親の仇のように破り捨てるだろうか? 己に向けられている妄執じみた視線を、隣の人物に宛てたものと勘違いをした挙句、月の綺麗な晩に一人でふらりと出かけて行って死体袋を増やすだろうか? そしてその後何事もなかったかのように振舞えるだろうか?

 

否、否、断じて否であるとランドルフは唱える。

 

否であってほしい。世の中の聖人が押し並べてそのような人物であってほしくはない。

まず誰にでも優しく振舞えるような器用な真似を、顔が怖いと子供に泣かれ、あまつさえ近所の連中にまで警戒されていたレベリアができるわけはないのだから、リーゼルの話は滑稽が過ぎるとも断じた。(なんと言ってもレベリアは他者とのコミュニケーションにいささか不器用が過ぎるのだ)

 

気づかないのは当人たちだけで、周りはそれを面白がっているものだから誰も指摘はしない。

それが大きく災いして、大概この二人の恋愛模様は一向に進展がなかった。進展がないのがいい娯楽ではあるのだが、時たまこうやって巻き込まれるのは勘弁してもらいたい、というのが一同の願いでもある。我ながら何と勝手なとは思うが、野次馬精神は仲間内であればあるほど発揮されるのだ。

 

「いずれ馬に蹴られるだろうな」

 

とは愛すべき宿の親父からの評価である。

 

「知るかだなんてそんな! ちゃんと聞いてください!」

 

「いいかリーゼル。女の相談事ってのは大体がメンドクセー案件だって相場が決まってらァ、俺ァ今日はもう美味いモノ喰って酒飲んで寝たい! 以上! わかったらどっかいけ」

 

「ひどいです、ランドルフ!」

 

「うっせえ! 疲れて帰ってきた挙句、惚気を聞かされた俺の身にもなれ!」

 

酒場の程よく広いテーブルの上に並べられた数々の料理と酒をかっくらう至福の時を邪魔されたランドルフは不機嫌であった。相手がリーゼルでなければ――かつて己を育ててくれた女によく似た娘でなければ、聞きたくないと耳を塞ぎ蹴り飛ばしでもして黙らせていただろう。食卓に並ぶ料理の数々は、依頼達成の打ち上げとして我らがリーダー、セティが気前よく払ってくれたものだ。

 

今回、彼は大型妖魔の討伐に駆り出されていた。火を噴き、魔術を操り、ヤギと蛇そして獣の頭を持つ合成獣。それらを他のパーティと協力しつつも多頭討伐するとなれば些か荷が重い依頼であることは確実で、特に今回の盾役であった彼への負担は大きかった。

 

目の前に広がる豪華な食卓はそれを慮ったセティの最大限の好意である。無駄にしたくはないが、どうやら目の前で涙目になりながら騒いでいる娘の恋愛相談じみた話をどうにかしなければ、心ゆくまで堪能することはできないようだ。

 

だが、冷める前に少しだけ味わってしまっても罰は当たるまい。しばらくぶりの極厚ステーキに挿し入れたナイフを動かしながら、ランドルフは疑問をぶつける。

 

「だいたい、なんでこのタイミングで言いだそうと思ったんだよ」

 

「今日はおじさんがいないからです」

 

ああそう、そうだったとランドルフは内心頭を抱えた。

 

リーゼルの想い人、件のレベリアは今日の朝から配達依頼に出かけていてこの場にはいない。彼女は昨日の夜遅くに帰ってきてから昼過ぎにのそのそと起きてきてその事実を知ったはずで、だからこそ他に話し相手もいないランドルフと話しているのだった。

 

「ッつーか好きな相手が構ってくれて嬉しいんだろ? いいじゃねえか別に」

 

「嬉しいですけど、勘違いしそうで怖いんです」

 

こちらの会話が聞こえているのだろう、カウンター越しに明日の仕込みと片づけをしている宿の親父が、勘違いじゃないんだがなと事情を知っている者特有の遠い目をする。

 

「それに……このままだと判断を誤りそうなんです。これでもパーティの頭脳であることは自負しています。感情で身を滅ぼしかねないのは、冒険者としても致命的でしょう」

 

「べっつにそうは思わねぇけどなァ」

 

同じパーティに所属した冒険者同士の恋愛関係なんて、今更珍しいものでもない。宿の連中には夫婦になっても冒険者を続け、幸福を勝ち取った奴らだっているのだから。

 

とはいえ、このままだと目の前の料理が冷めてしまうとランドルフは渋々助言を呈する。

 

「まァ、アンタがそう思うんならよ、ちょっと距離を置いてみちゃどうだい」

 

「距離を……」

 

「最近べったりだったろアンタら。たまには……そうだな、長期依頼でも受けたらいいんじゃねえか? 一人の時間が長けりゃ、気持ちの整理だってつくだろうよ」

 

その言葉を受けてしばらく考え込んでいたリーゼルだったが、やがて顔を上げて「わかりました」と、ガラスを指先で弾くような、よく通る声で言った。

 

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「アルター、あの子に何を吹き込んだ」

 

ゴブリンどころかトロールすら裸足で逃げ出しそうな貌のレベリアに捕まったのは、まったくもって迂闊だったからとしか言いようがない。

場末の宿屋の一階、仕事にあぶれたならず者と冒険者が管を巻く酒場のカウンターで、背後に立った男の気配に振り返れば吹き出てくる冷や汗と泳ぐ視線に何を思ったか、首根っこを掴まれて奥の席へと連れていかれる。周りの連中が憐みの視線を送る中、連行されていくランドルフをフードの端から火傷痕を覗かせた銀髪が笑って見ていた。

 

「待て、落ち着いてくれ旦那、俺は何もしちゃいない、誓って本当だ」

 

「もう一度聞くぞアルター、あの娘に、何を、吹き込んだ?」

 

「なるほどアンタ聞く気がねえな!」

 

壁際の席に己を投げ出し、目の前に仁王立ちする男の威圧感に吹き出るランドルフの冷汗は止まらない。

彼らが所属するパーティの不文律に「エーベルハルト卿を本気で怒らせてはならない」というものがある。皆の生命線と財布の紐を預かる彼を、一度本気で怒らせれば日々の食い扶持はおろか健やかな精神の安定の糧すらも危ぶまれるだろうというのが、リーゼルを除く彼ら――「墓掘り」達共通の認識であった。

 

「一昨日だ。一昨日帰ってきてからずっとあの娘の姿を見ない。聞けば一人だけで長期依頼に出かけたと。いつも目の届く範囲にいるあの娘が、俺に心配をかけまいと振舞うあの娘が、何の連絡も寄越さず長期依頼を受けるわけがない、長期依頼だぞ? 普段のリーゼなら必ず俺に連絡を寄越すというのに、何も言わずにたった一人で! 道中何が起こるかもわからない、フォローに回ってやれもしないというのに……カタジナ女史に聞けば貴様と何やら話し込んでいたと聞く!」

 

「カタジナァ! テメェ売りやがったな!」

 

威圧感に気圧されながらも店の最奥から声を張り上げて件の人物を怒鳴りつける。身にまとう衣装とは裏腹に涼しい顔をした赫いフードの女は、太ももまで覆われた長いブーツのつま先で床を軽く叩きながら、長い銀髪を指先で弄んでそれに答えた。

 

「売ったとは人聞きの悪い。カタジナは医師の心の安寧を末永く祈っておるが故に、少しお手伝いをしただけ。駄狗とて本望よな? 娘は泣かずに済む故な?」

 

「それとこれとはッ……」

 

別だろうが、と叫ぼうとして目の前の殺気が膨れ上がったことに気づく。

 

「ランドルフ・アルター」

 

「待って待って旦那、待って! その殺気しまってくれ!」

 

足元から立ち上る黒い霧にも似た魔力に出かかった悲鳴を辛うじて飲み込み、両手を前に突き出して情状酌量の余地を懇願する。どうして俺がこんな目に合わねばならないのかと人知れず流した涙は拭われることはなく、何故か公衆の面前で固い床の上に正座させられたランドルフは、目の前でオーガもかくやと言わんばかりの形相をして椅子に座り込むレベリアに、リーゼルの相談事を(動機をぼかしながらではあるが)洗いざらい話す羽目になった。

 

「……いじましいというかなんというか」

 

「何故こちらを見る、カタジナ女史」

 

「別に……」

 

「なあもう立っていい? 俺、足痺れてきた」

 

「まだそのままでいろ、アルター」

 

「勘弁してくれよォ……」

 

「親父、依頼受注書を見せてくれ」

 

呻き声を上げ続けるランドルフを尻目に、レベリアは宿の親父が引っ張り出した依頼書の束を順にめくっていく。内容と金額、どの程度の冒険者に依頼したいのかが明記された張り紙の隅には、重複を防ぐため受諾者のサインがされるのが常である。

小さく「リーゼル」とサインがされた紙を見つけ、視線の高さに持ちあげて目を通した。

 

「配達物は魔術道具、依頼人は資産家リュミエ……どこかで聞いたな」

 

「港町ティルトまでの配達依頼? 往路はほぼ街道沿いで馬車も出ていよう。この距離なら往復でも一週間前後ではないのか、亭主」

 

「なんでも、今回運ぶ道具は定期的に魔力の補充をせねば使い物にならなくなるんだと」

 

カウンターの向こうで皿をふきあげた亭主は、慣れた手つきで食事を盛りつけ始めた。

 

「指定された魔力の溜まり場を探しつつ、道具へ魔力を補充しながらの配達。馬車を使うならともかく、森奥に分け入ったりして基本は徒歩移動だからな。半月かかるだろうと、長期依頼として扱っておる」

 

「ティルト?」

 

泣き言とは違う言葉が出てきたことに気づいて正座したままの男を振り返れば、痺れる足を抑えつつランドルフが首をかしげる。

 

「ティルトって、港町の? 確か今日、セティとハンクが護衛依頼で行くつってたとこだぜ」

 

「なるほど。……医師、そう心配することもないのでは? 道は整備されて人の往来も多い街道沿いだ、妖魔が出たとしても低級、道中の危険も少なかろう」

 

「だがな……」

 

「なぁ旦那、少しは信用してやれよ。アイツだって冒険者だし、いつまでも守らせてくれるわけじゃないんだぜ。まあ、アンタが過保護なだけな気もするけど」

 

たっぷりとした沈黙の後、常とは違う穏やかな笑みを浮かべたレベリアは目の前の固い床で足をしびれさせている男に告げる。

 

「アルター、もう五分追加だ」

 

「なんで!」

 

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よく晴れた青空の下、街道から大きく外れた森の奥で、湧き出る源泉近くに魔術道具である水晶を投げ入れたリーゼルは、小さく煌くそれが魔力を吸収していくのをぼんやりと見ていた。

泉の水は澄みわたっていて、ときおり小さな魚たちが泳いでいるのが見える。青いオーバーオールの裾をまくり上げて岸に座り込み、ゆっくりと浸していけば歩き疲れて火照った足に冷たさが心地よく、目を細めた。

 

ランドルフの助言を聞き入れ、一人だけで依頼を受けてもう半月になる。

 

途中で一人では対処しきれない妖魔などに襲われることもなく順調な旅路だ。このまま順調に終わってくれればいいがと考えながら足先で水を跳ね上げた。輝きながら落ちていく水と、まだ補充の終わらない今回の配達物を見ながら、リーゼルはまた思考の海へと身を投げ出す。

 

今頃何をしているのだろうな、と交易都市はずれの安宿を思い浮かべてみる。己が居なくてもきっと何一つとして変わらない冒険者たちの日常がそこには広がっているのだろうが、何かが少しだけ変わっていてほしいと思うのは、一人が寂しいからか。基本的に長期依頼は「墓掘り」全員で受けていたから、こんなに長い間自分だけで行動するのは初めての経験だ。自分が想うよりも孤独が堪えているのかもしれない。帰ったらまず真っ先にレベリアに会いたい、と愛しい彼の人の姿が思い浮かんで頭を抱える。

 

日を追うごとに会いたい気持ちは募って、最近では夢にまで見るようになってしまった。そして目覚めるたびにここが宿でないことに気落ちする。そもそも彼への恋慕を整理するために、彼に甘えすぎないようにと一人で依頼に来たのに、これでは全く逆効果である。

とにかくあと数日、それまでに答えを出さなくてはならないと気合いを入れたリーゼルは水から上がった。配達物の魔力補充も終わっている。ここが最後の場所だったので、後は港町に配達するだけだ。

 

「我ながら重症ですね……」

 

はあ、とため息とともに零された独り言を聞いているのは、風に揺られる草花だけだった。

 

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「なあ……旦那、ちゃんと寝てるか?」

 

思わず、と言った風にランドルフが口を開く。隣でカタジナが心配そうにのぞき込む先、常よりも濃い隈で顔色を悪くしたレベリアが手元の術書から視線を上げて答える。

 

「四時間程度は、一応」

 

「いや、それちゃんと寝てるうちに入んねえよ」

 

胡坐をかいて座り込むランドルフの膝の上には鍵の掛かった小箱が中途半端に開錠された状態で転がされている。現在彼らが受けている依頼は「故人の遺品整理」。大往生を遂げた祖父の遺産整理をしようと思い立った依頼人が、祖父の個人的蒐集物には取扱いに注意が必要な魔術道具も入っていたことに気づき、己の手には余ると冒険者の宿に依頼を出した……のを、珍しく朝早く起きたランドルフが掲示板から見つけ出してきたのである。

 

金持ちの道楽で集まる物といえば危険がつきものだが、収集者は信頼のおける相手としか取引をしていなかったようだし、おそらくはそこまで危険性の高いモノはないだろうと踏んで、レベリアとカタジナもその依頼に賛同した。

 

よって、彼らは今資産家の所有する小屋の中で、遺品たちと格闘中であったが、先ほどから具合の悪そうなレベリアを見かねたランドルフが先の台詞をのたまった。

 

「眠れないのか」

 

沢山集められている壺――おそらく一つ数十万の価値がつく――を割らないよう慎重に動かしながら、カタジナが尋ねる。

 

「眠れはする。だが、あまり長く寝るとリーゼが夢に出てきてしまって……」

 

「アッごめん、今の無しの方向でお願いします」

 

「聞いてきたのはそっちだろうが!」

 

「いやあ、流石にこの状況から惚気話に方向転換するとは思っておらなんだ、許せ」

 

「惚気話だと?」

 

「いや、自覚無いのかよ!」

 

雑談に興じながら手元の遺品を分けていく。冒険者たちに任されたのは、魔術品と普通の遺品の分別と、先ほどランドルフが弄っていた、鍵を紛失してしまったために中身が確認できないものの開錠、及び確認である。首を傾げたレベリアに両手を上げたランドルフは再び箱をいじり始めた。

 

「おっ、開いた」

 

蓋を開けると中から小さな人形が飛び出して歌いながら回り始める。三人はしばらくそれに聞き入っていたが、やがてランドルフがそっと蓋を閉じた。

 

「ただのオルゴールだったなァ」

 

繊細な内部機構を壊さないようにそっと非魔術品のコーナーへと移動させる。術書の内容を簡潔にまとめたメモを本に挟みながら、レベリアは先ほどのメロディを思い出してポツリと呟いた。

 

「《隠棲》か」

 

「なんて?」

 

「曲の名前だ。ある有名な作曲家が作った歌曲集の中の一つだったかな、孤独を愛そうと孤独に親しむが、上手くいかない詩人の唄」

 

耳に残る曲のあとを辿り男の頭を巡るのは、自分を置いていった娘の姿。何故急に思い立ったかのように一人で長期依頼に出たのか。ランドルフからあらかたの事情を聞いたといえども、やはり腑に落ちない。ああでもない、こうでもないと考えて、ぽつりと思い当たるのは己から彼女への態度である。

 

「(そんなに鬱陶しかったか?)」

 

そこまで考えてひどく落ち込む。ああそんなに。一人になりたいと願うほどに、そんなに鬱陶しかったか、俺の心配は!

冷たい眼のリーゼルに「レベリアさん、しつこいです」と言われる想像に頭を抱える。へこむ。ソレはへこむ。あまりにもつらい。

数年前、宿に飲みに来ていた年配の男性(騎士団勤務だった)が酒に酔った赤い顔で、娘に「お父さん臭いから近づかないでほしい」と言われたのが、たいそうつらいと泣いていたのを思い出す。

そんなものかと聞いていたが、実際自分が似たような状況に陥るとは思ってもみなかった。

 

「ど、どうした医師……顔が怖い……」

 

この世の全てに絶望したかのような顔で俯くレベリアに、驚いたカタジナがたじろぎながらも声を掛ける。吃驚したのか、いつも閉じている左の眼が大きく開かれていた。

 

「いや……日頃の行いを反省しているだけだ、気にするな……」

 

「マジで今の数秒に何があった旦那……」

 

首を振るばかりで何も言わない。ますます悪くなる顔色を気にしながら、夕暮れを知らせる鐘の音が響くまで三人は黙々と作業を進めていった。

 

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「はい、ご苦労様。確かに受け取ったわ」

 

受領印を受け取り、リーゼルは大きく息を吐く。これで依頼された配達は終了した。後は帰るだけだったが、依頼人の要望ついでに帰りの配達依頼も受けてしまった。馬車賃は出るようで、配達指定場所は交易都市の資産家だ。道中以外の危険はほぼ無いだろう。

 

「じゃ、最後の加工に掛かるね。多分一日ぐらいかかると思うから、のんびりしていって。寝泊りはうちの客室を使ってもらっていいから」

 

「ありがとうございます」

 

運んでいた水晶は素材だったらしい。目の前の依頼人はマジックアイテムを製作する職人で、資産家から依頼された呪術解除のアイテムを作るため、冒険者に依頼を出したのだという。

 

「交易都市の幼馴染から解呪の品を頼まれちゃってねえ。でも必要な魔力を補充できるだけの魔力溜りは妖魔が多くてとてもじゃないけど近寄れないし……作るのは得意だけど戦うのは得意じゃないのよね。アタシらじゃあんまり遠くに行けないからさ、助かったわ」

 

快活に笑ったエプロン姿の女性は手をひらひらと振ると工房へと引きこもった。おおよそ道具を作るにしては大きすぎる破壊音が聞こえてきたが、いまさらこんなことで驚きはしない。

 

手持無沙汰だったので、勧められた通り港町をのんびりと見て回った。白い石畳に反射した太陽がまぶしく、リーゼルは目を細める。昼前に着いたので、海の見えるカフェテリアに入り海産物のパスタを注文し、サービスだと言って渡されたレモンサワーを飲みながら、店員に暇をつぶせる場所はないかと尋ねた。ここに住む人々は皆陽気でおおらかで人懐っこい。けれどさっぱりとした気性が、今のリーゼルにはありがたかった。

 

市場に並ぶ様々な海の幸を眺めて料理を考えてみたり、潮風が吹く波止場をぼんやりと散歩したり、砂浜に降りて裸足になり波と遊んでいると、聞きなれた声が耳を打つ。

 

「リゼリゼじゃん!」

 

振り返れば珍しく魔術装具を外したハンクが駆けてくるところだった。後ろからはこれまた珍しく、ワイシャツとハーフパンツというラフな格好をしたセティがゆっくりと歩いてくる。完全に宿の休日のような恰好をした二人に驚きながら、リーゼルは何故ここにいるのかと尋ねた。

 

「貿易品の護衛依頼でこっち来たんだけどね。なんか街の雰囲気がのんびりしてたから、遊んでこうと思って。灯台守の真似事をしてれば衣食住が付いてくるって言われたから、その依頼の途中」

 

「にしたってその恰好は、完全にバカンス気分じゃないですか」

 

「武具を悪戯に痛めたくないだけだ。ここは潮風がきついからな」

 

誇らしげに笑うセティの笑顔を目にして、飲み物を片手に顔を赤らめた女性たちが通り過ぎていく。なるほどこれが秀麗の底力、などと考えるリーゼルの足元を透き通った海水が撫でていった。広がる海はどこまでも穏やかに波を浜へと寄せている。

 

「用意周到に水着まで用意して……」

 

「実は遊ぶためにここへの依頼受けた」

 

「最近依頼無くて暇だったからな」

 

「だと思った!」

 

あきれてみせた娘に金髪の青年は哄笑する。

 

「それより、リゼリゼは? やっぱ依頼? それとも観光?」

 

「エーベルハルト卿はどうした」

 

矢継ぎ早に飛んでくる質問にどう答えたものかと呻きながらも、正直な性分で悩み事をすべて打ち明ける。聞いていたハンクとセティは、うっかり砂糖菓子を喉の奥に詰まらせたかのような顔をしてリーゼルから目をそらした。ランドルフも同じような顔をしていたな、と二人を見上げた娘の表情を見て取ったか、盛大な溜息と共にセティは「とりあえず、早めに宿に戻った方がいいだろうな」とだけ言った。

 

「どうしてですか?」

 

「えー聞いちゃうんだソレ……っていうか今更すぎる」

 

「いい娯楽ではあったが、見納めか」

 

首を傾げたリーゼルを促して、しばらく三人で海岸沿いを歩いていく。寄せては返す波の音に水際を歩く娘の足音が重なり、波打ち際を小さな蟹が横切ろうとして波に攫われていった。

 

「……ご迷惑でしょうし、諦めた方がいいとは思うんです」

 

明るい海を見ながら呟かれた言葉に何か言い返そうと口を開いたハンクは、その横顔を見てむすりと黙り込んだ。金髪が潮風に晒されてべたついていくのを手持無沙汰に指先で弄ぶ。

 

「何故そう思う」

 

「あたしじゃあ、隣に立てないでしょう。……彼のお相手が複数人いることも、知っていますし」

 

ぶは、と吐き出された声に振り返る娘からハンクは顔をそらす。慌てて咳払いをしてごまかすセティは苦しい息の下、何とか言葉を絞り出した。

 

「それはまあ、誤解というかなんというか……。というか、リーゼル。アレだけ人目も憚らずラブコールをしておいて、まだそんなことで悩んでいたのか?」

 

「そ、そりゃあ、アピールはしてましたけど! でも、おじさんは何も変わらないまま優しいから……甘えちゃって……よくないなって……」

 

だんだんと小さくなっていく声はついに波の音に消された。先程までの苦しげな呼吸はどこへやら、盛大な溜息と真剣なまなざしを一つ。立ち止まった娘の肩に優しく手を置いたハンクは、目の前で不安がる妹に言い聞かせる。

 

「ねーえ、リゼリゼ。レベちゃんは君が思っているほどお優しい人間じゃないよ。君がレベちゃんの前で聞き分けの良い子供を演じているのと同じようにね」

 

「……」

 

見上げる大きな目が揺れている。いつも根拠のない自信をその身に宿して道を歩く娘の明るさに、幾度となく救われたことのあるハンクはひっそりと息を吐く。

 

精神の根本からして脆い己の魂を、幾度となく深い水底から引きずり上げたのは、親友の前向きな破天荒さと目の前の娘の明るさだ。自分を照らしてくれる彼らの光が損なわれてしまうことを、ハンクは何より恐れ、同時に厭ってもいた。

笑っていてほしいとハンクは切に思う。今回の発端が少女の不安な恋心という――カタジナやセティに言わせれば、とんでもなく下らなく愛しい笑いごとであったとしても、年相応にしおらしくなる娘の一面をかわいらしいと思ってはいても、やはりリーゼルには、日向の似合う娘には笑っていてほしかった。

 

どうせ、彼女の想う相手とて同じなのだから。

 

「……っていうかもうめんどくさいからさあ、告白してきて」

 

「投げやりじゃないですか!」

 

「フラれたら俺たちが盛大に慰めてあげるから」

 

「これからも仲の良いオトモダチでいさせてやるよ」

 

「他人事だと思って! ひどい! あんまりです!」

 

べしゃりと海水を叩きつけたリーゼルに、お返しとばかりにハンクも掬い上げた海水をまき散らす。飛沫は音を立ててセティにも跳ね上がり、愉快げに口元を曲げて大人気もなく参戦したリーダーに二人は揃って悲鳴を上げる。騒ぐ三人の足元を、何も知らぬ顔をした穏やかな波が拭っていった。

 

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「終わった……」

 

「まさか数日かかるとはな……」

 

物が埋めていた部屋は綺麗さっぱりと片付けられ、簡素なテーブルとチェアのセットが残るだけとなった。その中央では大の字に寝転がるランドルフと、疲れたように膝を抱え込むレベリアの姿がある。隣ではカタジナが窓から入ってきた蝶を目で追いかけて腹を鳴らしていた。

 

遺品整理は延べ三日間にも渡った。途中で振る舞われた食事や用意された寝台は、流石資産家だと言わざるを得ないようなものばかりだったが、奥に掻き分ければ掻き分けるほど得体のしれない魔術品や、凶悪なマジックアイテムなどが出てきて、三人は仕分けしていくたびにそれらが発動する条件をうっかり満たしてしまわないよう、鑑定に念を入れて精神をすり減らしていった。おかげで終わるときには全員疲労困憊である。

 

「お疲れ様なのですよ」

 

扉が開いて依頼人のリュミエが入ってくる。手には良い香りをさせる茶と焼きあがったばかりのケーキが添えられていた。慌てて身を起こすランドルフ達に笑って、部屋の隅に避けられたテーブルの上に茶会の用意を広げる女主人の顔は明るい。

 

「すっかり片付けてくれて僕も家人も大変満足なのです」

 

「ああ、そりゃよかった……これからも我が宿をどうぞ御贔屓に……」

 

「うんうん、また頼みますの」

 

勧められたケーキを惜しみながら食べるカタジナを横目に、レベリアは気になっていたことを尋ねる。

 

「で、あの姿見はどうするんだ?」

 

壁に掛けられた一枚の大きな鏡。故人が骨董品店で見かけた際、一目ぼれして買ったという金縁の鏡には、紫の布が被せられて覗き込むことは叶わない。

 

飼っていた鼠が鏡を見たとたんに吸い込まれてしまった女主人が、唯一マジックアイテムだと看破できた姿見は、部屋の壁に埋め込まれていて移動することもできず、布を掛けたまま放置されている。

 

今回の依頼は遺品整理。これもその対象なのかと聞けば、そうだという返事が返ってきた。違う町に住むマジックアイテム職人にこの鏡の解呪道具を頼んだので、届いた道具を使ってこの鏡だけでも解呪をしてほしいという。

 

「そろそろ届くと思うのですよ」

 

返事をするように、屋敷のベルが鳴らされた。

 

 

――気まずい。非常に気まずい。

 

港町から帰ってきた足で資産家の家まで訪れたのはいいものの、そこで遺品整理をしているのが残っていた三人だとは思わなかったリーゼルは冷や汗をかきながら、持ってきた呪術解除の品を起動させている。

 

配達は終わっているのだし、これでさようならと逃げ帰ってもよかったのだが、後ろの想い人の視線が如何せんじっとりとした重みをもって圧し掛かってきていた。

 

「……」

 

黙りこくる二人を前に、他の四人も黙りこくる。とはいえその趣は二人とは異なり、これからの展開を期待する沈黙だったのは言うに及ばない。光り輝いていたマジックアイテムは徐々に光を失い、鏡はその魔力を霧散させた。試しにカタジナが覗き込んでみたがうんともすんとも言わない。解呪は無事になされたようだ。

 

「わあ、本当にありがとうなのですよ! これでこの部屋も普通に使えるのです」

 

「どういたしまして、マダム」

 

微笑む女主人にリーゼルもまた微笑み返すが、内心穏やかではない。

 

「じゃあ、こちらの三人にも報酬を渡さないとならないのですよ。ちょっと待っててほしいのです」

 

扉の向こうに女主人の姿が消え、取り残されるのはいつもの面々。後方で野次馬根性を余すところなく発揮している仲間たちを横目に、リーゼルはどう切り出したものかと思案する。部屋のなかは沈黙に満ちていて、ハンクが耐えきれず身を乗り出して見守る他三人を引きずって部屋の外へと出ていった。閉め忘れたのか、扉は数センチほど開いたままだ。依頼人はまだ帰ってこない。

 

「リーゼ」

 

沈黙を破る男の言葉にひくりと肩が跳ねる。心配させてしまったかもしれない、その一点は娘の負い目だ。この男が存外自分に甘く心配性なことを娘は身をもって知っていて、だからこそ余計な心配を掛けまいと今まで振る舞ってきた。男の心配が単なる信愛からくるものなのだと信じ切って。

 

だが、続く言葉に娘は目を丸くする。

 

「……一人きりを望むほど、俺は鬱陶しかったか」

 

「えっ」

 

突然何を言い出すのかと丸い目を瞬かせるリーゼルに構わず、レベリアは言葉を続けていく。

 

「お前の事を信頼していないわけではない、それは誓って本当だ。だが、その……」

 

高い背を丸めて呟かれる歯切れの悪い男の言葉に、大きくかぶりを振る。

 

「ち、違います! 鬱陶しいだなんて全然思ってないです!」

 

「そう、なのか?」

 

今度は男が目を瞬かせる番だった。違うのだと必死に言い募る娘の様子に、思いつめていた男はだんだんと、リーゼルにしかわからない範囲だったが相好を崩していく。陰鬱に纏っていた影は消え、手に取るように男の安堵が伝わった娘は口を滑らせた。

 

「心配されて嬉しいのは事実ですし、特に好きなヒトになら、尚更っ……!」

 

「え」

 

「あっ」

 

失言に気づいた娘の頬がじわじわと赤く染まるのを、男はただ驚きと共に黙って見ていた。耳まで朱に染め上げた娘は、見られまいと必死に両手で覆ってみせるが、努力も空しく首まで朱くした姿はしっかりと他の目にも映る。その様子を呆けたように見つめる男の視線の下、行き場をなくした娘の視線はウロウロと彷徨った。

 

「……ええと、その、あの、今のは口が滑ったと言いますか」

 

「リーゼ」

 

逃げ惑う視線は無理に固定させられる。大きく見開かれた三白眼は無言の重圧と共に退路を断っていき、残るのは上ずった声にならない呻き声。

 

「今、何と?」

 

「その……あの……」

 

たっぷりとした沈黙の後、ヤケクソ気味に飛び込んできた恋の告白に、開いた扉の隙間から覗いていた他四人と依頼人は顔を見合わせる。

 

「ムードも何もあったもんじゃなかったな」

 

「依頼帰り故に、雰囲気など無い」

 

「まあ、あの二人らしいと思えばいいんじゃない?」

 

「あらまあ、かわいい二人に今日はお祝いなのです!」

 

「なんにせよ」

 

ランドルフの視線の先には、立っていられずに崩れ落ちるリーゼルと、立ち尽くすレベリアの姿。

 

「リーゼルは詩人にゃ向いてねぇってことだなァ」