つまるところ無意味だ、と娘は言う。
身にまとう動きやすさを重視した衣服と、頭に巻き付けられている包帯は泥で汚れている。唯一頬を覆うように貼り付けられたガーゼだけが白く真新しい。彼女が座る崩れかけたレンガ壁の上には虫の死骸が落ちている。
微かに爆撃のような音が聞こえて、硝煙の匂いが風に乗って流れてきた。隣に置かれた古代文明機器からは、戦況を告げる伝令兵の声が流れてくる。
女と呼ぶには少々年齢の足りない、かといって少女と呼ぶには些か育ちすぎている娘は、目の前に開かれた小難しい魔術理論の並ぶ分厚い革表紙の本の頁を指の先で叩きながら、短く切り落とされている薄桃色の頭髪を一定のリズムで引っ張っては数本地面に落としていく。
その様子を目の前の椅子に座った暗い眼の医者、将校用の仮設テントの下でむっつりと黙り込んでいる男は見守っているのだが、娘の言葉を受けて疲弊した目元を険しくさせた。
「彼らがやろうとしていることは、まったくもって無意味かもしれません」
地面から生えたボードへピン止めされた地図に、各勢力のピンが打ち立てられている。赤く塗られたピンは今彼らが話をしている場所、即ち戦場となってしまった市街地へと帆を向けている。
幾分か言葉をやわらげた娘を一瞥し、街一つ救おうというのに随分と冷えた発言だと返した男の手は血のにじむ包帯で覆われていて、視線を頁の黒々とした文字列に固定させたまま、彼女は細い眉を寄せる。
「……この街一つ、落ちたところで戦局に影響はありません。いたずらにこちらの勢力を疲弊させるだけでしょう。だというのに、盟主は救う気でいますか」
「ヒトとは得てしてそういうものであるべきだ、皆おまえのようにはなれない」
「君が信じるものに傷をつけたくはありませんが。……ヒトとはもっと大局を見て動かねばならぬものだと、あたしは思っています」
「街に居残り死にかけるのが己であってもか」
「もちろん」
だから君は早くお逃げなさい、と娘は続けた。
「ここを死地と決めてしまった以上、あたしは一軍の将としてここに留まらねばなりません」
「ではそれに付き合おう、この戦争を――辺境伯と守り人の戦争を始めてしまったのは他でもない、俺の選択がきっかけだ」
立ち上がり処置された傷の上を指でなぞる恋人を見上げた娘は、それでも眉根を寄せて不機嫌さを隠そうともしなかった。
かつて眩いほどの光と共に映し出されていた空は曇ったままで、見ている男は酷く痛ましい気持ちになる。
死は確実に彼らの頭上で笑っていて、いつ吊るしてやろうかと手にした縄を弄んでいることを二人は当の昔に知っていた、知っていたが、その縄から逃れようとはもうしなかった。むしろ進んで縄に首を突っ込んでいる、とはある召喚士の弁によるものだ。
「お前を助けてしまったのが俺の罪ならば、お前を愛したのが俺の罰だろう」
「贄の子を逃がしてしまった」という一点で守り人の責任を追及し失脚させ、南の地の支配権を彼らから取り上げたい辺境伯と
南の地の支配権を渡してしまえば仕事が無くなり家の存続が危うい崖っぷち貴族の守り人が戦争をしてしまったら、という話。
目が覚めて隣で眠る娘がいないことに気づいたレべリアは跳ね起きてあたりを見渡した。
いない、どこにも居ない。いつも己について回る小柄な姿が見えない。その事実はいともたやすく心を乱して、こみ上げてくる不安は爆発的な力でもって彼を押しつぶす。消えてしまったかもしれない、いつぞやのように何も言わずにたった一人で! その考えが頭を支配して、心臓は早鐘を打ち息は乱れて歯の根は震える。探さなければ、あの娘を、リーゼを。そう思えば身体は勝手に動き、部屋の扉を勢いよく開く。
小さな悲鳴に動きを止めれば声の主が上着の前を掻き合わせてその場に立っていた。こちらもだが相手も吃驚したらしく、大きな目を覆う瞼がぱちぱちと忙しなく動いている。
「……リーゼ?」
「は、はい?」
中途半端に伸ばされた手を引っ掴んでそのままの勢いで扉を閉める。強く抱きすくめたまま扉に背を預けてしばらく息を整えようとするが、努力とは裏腹に身体は言うことを聞かない。
腕の中で縮こまる娘を確認するために背中から押し当てた掌の、その下に脈打つ鼓動を確認して初めて安堵の息を吐いた。
生きている。まだ、生きている。
「レべリア、さん」
「何処に行っていた」
縋るように強く、強く。苦しげな声が上がるが構っていられない、そうでもしないと己の不安に耐えられない。
声も腕も呼吸も身体も恐怖で震えている。怖い、喪うのが怖ろしい。また彼女のいない日々を過ごすことに耐えられそうにない。
「あの、お手洗いに……」
小さく答えた娘の細い手が背に回される。宥めるような動きにつられて呼吸もいくらか和らいでいった。
「消えてしまったかと、思った……」
「レべリアさん」
「お前が戻ってきたのも、共に過ごしたのも、全部、夢だったのかと……」
「大丈夫、大丈夫です。あたしはここにいます、もう置いていきませんから」
抱き潰されて苦しげな息の下から絞り出された言葉に力が抜けていく。そうだとも、もうこの娘が命を捧げることなどないのだ、己の知らないまま知らない場所で死ぬことはない。元凶となった魔女はもうその力を使い果たし地底湖の底で眠っている。魔女を眠らせたのは他でもない己であるというのに、未だに彼女を喪うことに怯えているのは滑稽だろうか。
部屋の暗がりに浮かびあがる見知った姿が形をとって、闇と絶望を与える家の子がなんてザマだと己を謗る。小さな姿を庇うように再び強く抱きしめ、目の前に浮かぶ己にしか見えぬ影に吐き捨てる。
「(貴様になどくれてやるものか)」
「ある日の事。」後のふたり。置いていった彼女は付けた傷ごと彼から離れる気はない。
娘の話。
娘は生まれながらに贄であった。
皆の幸福のために捧げられる羊だったが、それは哀れだと逃がされた。
娘は逃げた先で恋を知った。
全てを捧げてもいいと、全てを投げ出してもいいと思える恋を知った。
共に歩みたいと願ったが、己が贄であることを片時も忘れたことはなかった。
贄が捧げられなければその地は滅びる。恋しい人が住む地も滅びる。
恋しい人を永遠に失う、それだけが娘には耐えられなかった。
娘は贄になった。共に歩みたい、共に生きていたいと叫ぶ己を潰して娘は贄になった。
それこそが娘の愛だったが、あまりにも身勝手な愛だった。
(来るはずのない君との日を願ったことを、罪と呼ぼうか)
あたし、君に救われたんですよとリーゼルは息を落とした。彼女が口から落とした息は様々な感情が混ざりあって地面へと吸い込まれる。
あたし、救われたんです。君に。
血の気の失せた白い顔と冷たくなる手足に医者は叫ぶ。何もいうな、何も言ってくれるな。俺はお前にひどいことをするのだ、その結果がこれだ。
それでも彼女は擦り切れた布の軋む音のような声をあげ続けることをやめなかった。粗末な寝台の上に横たわった娘の頬に一滴、濁った空からは灰色の雨が降り落ちて粗末なテントを濡らしていく。医者の手が握る焼けた鉄棒からは、肉の焼ける臭気と音がしてリーゼルは耳を塞ぎたくなったがそれも叶わない。
(レベリアさんの前では綺麗でいたかったなあ)
剣戟と魔術の飛び交う中を生きる冒険者にしてはあまりにも滑稽で場違いなことを考えてしまって、彼女はうっすらと微笑む。すっかり冷え切った白い顔の中、未だ色を失わない大空のような青い瞳に愛しいヒトだけ映してゆるゆると瞼を閉じた。
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「ああ、焼いたのか」
空っぽの左袖を一瞥してにべもなく言い放った顔見知りへの返答に窮し、少しだけ顎を引くことで答えとした。
それだけで十分なのか、捻っていた身体を元に戻し、刻んだコカの葉を荷包装用の雑な紙で巻いていくセティの隣に座り込む。テーブルの上には刻み葉の入った缶と大きさも形もまちまちな紙が置かれていて、彼はそれを丁寧に破いてはせっせと煙草を作っているのだった。
年上の友人はこういった、無駄ではあるが無意味ではない物を自分で手ずから作ることを密やかな楽しみにしている。そのことを知っている者は多くはないのだが、リーゼルはその数少ない内の一人だった。
「消毒薬も無かったから……腐り落ちることを防ぐにはこうするしかないと言われました」
「そうか」
長く細い指先がくるくると器用に巻いていくのを見守る。やってみたい、と言えば刻み葉の入った缶を押しやられた。紙を巻き込むための木枠を渡されて、目の前で一本出来上がる。
「スプーン一杯詰めて、巻く。簡単だろ」
「そうですね」
木枠に巻き込んだ紙に葉を詰め込んでいく。たったそれだけの作業をするだけの間に、隣の男はすでに数本作り上げてしまう。
「辞めないのか」
「辞めてどうしろと」
「そうだな、小さな土産物屋か雑貨屋でも開くとかか? 商品の仕入れに関しては手伝える」
「煙草でも売りますか」
「開業する予定はないな」
喋りながらもセティはまた一本作り上げて、リーゼルはまだ紙を巻き終わらない。日が暮れるぞ、と言いつつも取り上げようとはしなかった。
「……義手を頼みました。君も知っているでしょう、木の葉通りの」
「ああ、よい仕事をすると聞いた。だがその分値が張っただろう」
「ええ、まあ……。しばらくは御面倒をおかけしますけど」
「構わん。その台詞は俺ではなく他に言え」
しばらく考えてから、彼のヒトを除く他にも同じような台詞を返されたと伝えれば男は肩を揺らして笑った。
左腕を失った彼女と、命を救うためだった選択を後悔し続ける医者の話の序文。
昔から雷にひどく怯える性分だった。
生存本能のようなものだから仕方ないと思いはすれど、耳を劈く轟音と空を割って光る白い亀裂を見るたびに、身がすくむのを抑えることはできなかった。
だからほら、今も。
光の弱まったランプで照らされた室内が一瞬だけ昼間のように明るくなる。一拍遅れて響く大きな音に耳を塞いで毛布を引き寄せる。
「だいぶん近くに落ちたな」
火事になってなければいいが、とひとりごちる彼を恨みがましい視線で見上げる。ベッド脇に置かれた背の低い椅子に腰かけて、長い脚を器用に組んだ男は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
大粒の雨はやかましく音を立てながら硝子をたたいて、風は吹く度に枠を揺らして軋ませる。その音にすら恐怖心が首をもたげて、あたしはますます毛布の下で縮こまった。
「レベリアさんは、怖くないんですか」
遠い昔には怖かったような気もする、と笑う彼の横顔に見とれて、一瞬毛布から抜け出る。だが、次の瞬間響く轟音に恐怖が打ち勝って、毛布の中へと逆戻りだ。
うう、と呻く隣で動く気配がした。と思ったら、ベッド際に座りなおした男の手が、宥めるように毛布の上から軽く降ってくる。一定のリズムで弾むその手に安心して、強張っていた身体から力を抜いていく。
「……あたしは、怖いものが多いんです。今も昔も、何も変わらずにずっと怖いものが怖いまま」
「いいんじゃないか」
「でも。でも、怖がったままじゃ守れないでしょう」
君のことを、と呟いた声は轟音にかき消されて果たして届いたのかどうなのかわからない。
そろそろと毛布から片手を出して、空いていた手を掴んだ。何も言わないのをいいことに、握り込んで隣にすり寄る。
「……別に、俺を」
「言わないでください。あたしがそうしたいだけなんです。……たとえ、雷に怯えて震える小娘であっても」
「そうは言っていないだろう」
溜息が聞こえて繋いだ手に力が込められる。雷はまだ止まず、外は暗い。
握った手の温かさに絆されて、あたしはゆるゆると目を閉じた。
怖がりな娘が守りたいもの。