――ああ、また面倒ごとだ。
とあるハイエルフがヒトに助けられ、連れていかれた先で仇敵と出会う話。
薄暗く足元も覚束ない石畳を裸足で駆ける。
並走する鼠が横へ逸れたのを見て細い横道があることに気づき飛び込めば、距離があったのが功を成したのか、追跡者たちが足音を響かせてまっすぐに路地を突っ切っていく。
体中に広がる細かな震えが止まらず、女は頭から覆うぼろ布ごと己の身体を抱いた。
そっと横道から顔を出してみれば追跡者たちの姿はもう見えず、建物の壁に寄りかかって安堵の息を吐く。土と埃で汚れきった布の端から覗く肌を隠すように、そっと端を抑えた。
息を整え、路地から出て大通りへと歩を進める。雑多な市が立ち並び様々なヒトが行き交う通りでは女の存在など見えていないようで、あちらこちらに肩をぶつけたりぶつけられたりしながらもようやく人込みを抜け出し、大通りの終着点である城門へと向かっていく。
あと少しで城門へと辿り着く。寸前、横から伸びる手が腕を掴んだ。
「お待ちよ、お嬢さん」
路地に引きずり込まれ息を呑む。頭上高くつかみ上げられた手のひらを握り込めば風が集まるが、男が何事かを呟けばそれは霧散し、悔しそうに女が唸る。
先程撒いたと思われた追跡者たちが現れて彼女を取り押さえ、抜け出そうと暴れる手足にきっちりと縄を食い込ませていった。腕に入れ墨をした浅黒い肌の大男が女を抱え上げれば、ぼろ布は剥ぎ取られて特徴的な容貌が日の下に晒される。金糸の豊かな髪の間から伸びる尖った耳。
「困るね、商品が勝手に逃げ出したら」
「誰が商品ですかッ……! ワタクシはッ」
「何と思おうと今のお前さんは私に買われた奴隷なんだよ、尖り耳」
武器を持った私兵たちに追い立てられる人々。己が背に続き歩く繋がれた彼らを親指で指し示した男の、櫛も素通りするだろう真っ直ぐな黒髪の下で、底冷えのする灰色の眼が細められ、今しがた捕まえた商品の検分を始める。何処にも傷を負っていないことを確認した商人は、路地の一角へと歩を進め、暴れるエルフを押さえつけている寡黙な部下は苦労しながらも後に続いた。
◇
「交易都市じゃエルフなんてもう珍しくもないが、見目が良い奴は高く売れる」
シエロが檻の外でそう話す商人の言葉を聞いたのは今から二日前だ。暮らしていた森を焼かれ、逃げ出した先で奴隷商人に捕まってしまった哀れなエルフ。
様々な場所に売り渡されて長く奴隷生活を送ってきた彼女にとって、どこへ連れていかれようが同じ地獄であった。
仲間達もすべて売られて何処で何をさせられているのかもわからない、絶望は彼女の傍でいつも笑っていて、それに抗うだけの気力もすでに尽きようとしていた。
だが、奴隷商人たちが交易都市に着いたときに、天は彼女に一度だけのチャンスを与えた。繋がれていた馬が暴れだし、商人たちの注意が奴隷たちから逸れたのだ。
その混乱に乗じてシエロと幸運な他の奴隷たちは逃げ出した。交易都市は人通りも多く、紛れてしまえばそう易々とは見つからない。そう思っていたが、奴隷商人の私兵は随分とよく訓練されていたらしい。彼女が見つかるまでの間に、他の奴隷たちは皆捕まっていた。
誰も彼もが俯き一言も発しない集団を引き連れ、異国の装いをした黒髪の商人と金髪のエルフを運ぶ大男。人通りの少ないスラムで目立つ集団であることは確かだったが、それでも建物の影に隠れるようにして蹲る浮浪者たちは見上げようともせず、虚ろな目はひたすらに一点を見据えている。
ふいに繋がれた集団の一人が拘束から抜け出し、気弱そうな茶髪の中年男性は息を切らしながら大声を上げようとするが、彼の口から声が出てくることはない。
すぐさま私兵の一人が組み付き取り押さえて伺うように商人を見上げた。
「何処産だ?」
「ヴィスマール近郊だったかと」
「ふぅん……そう価値のあるものでもない」
商人が「処理しろ」と指示を下せば、私兵は白刃を躊躇わず男性の喉へと滑らせた。飛び散る赤はすぐに石畳の隙間に流れ出して黒く変色していく。
「掃除人の手配は」
「もう到着しております」
いうが早いかローブを被った二人組が水の精霊を呼び出して流れ出す赤を濯ぎ、男の死体を持ち去った。
「無駄な出費は控えたいが、今のは商品の鎮静化による必要経費だと思いたいな。お前はどう思う?」
「ご随意に」
「面白みのない返事だ」
「善処します」
「……ぁ、く、くそっ、このっ、離せっ!」
路地裏に甲高く響く女の声に眉を顰めた商人が呪を唱えれば、先ほどまで響いていた声は張り付いて一言も発することはできなくなった。言葉にならない荒い息遣いだけが口元から漏れ出る、それでもめちゃくちゃに暴れて抜け出そうともがく女を大人しくさせようと、運んでいた男が手刀を振り上げたのを伸びてきた手が掴んだ。
「よせよ、デカブツ」
その言葉を皮切りにエルフの身体は上空へと放り出される。何事かと目を見張る彼女の真下で、大柄な体躯は石畳に沈んでいた。
落ちてきた彼女を苦も無く受け止めた男の後ろ、突然の乱入者に対応しきれていない私兵の間を影が動くたびに一人、また一人と崩れ落ちていく。
状況を把握した商人は舌打ちをするとすぐに駆けだすが、時すでに遅く彼の目の前に騎士団が立ち塞がった。
「冒険者まで雇うとは。騎士団は随分と人員不足なのか?」
「貴様のようなクズが生きているおかげでな。大人しく投降しろ、奴隷商人メイグ!」
黒髪の男、メイグの後方では今しがた気を失った私兵たちが山のように積み重なって、その山の上で一匹の黒猫が得意げに鳴いている。
戒められていた縄を外されて初めて、シエロは己を抱きとめた男の姿を認めた。
手入れのされていない荒れた緑髪、正規品ではなく不格好な部分鎧に対して、腰に下げる白銀の剣は魔術が付与された業物であり、彼が単なる兵隊ではないことを示していた。白い包帯で覆われた左目からは禍々しい何か――シエロには到底知り得ないようなヒトの魔術によるもの――が閉じ込められていて、晒された陰りの在る青い瞳には気遣いの色が伺える。
身構えた彼女を慮ったか、すぐに男はシエロから離れ――突如繰り出された鉄の拳に目を細めた。
「後悔するなよ」
「手を出したのはそちらだろう」
足元から黒い炎を発現させて騎士団の一人を焼き尽くしたメイグは、狼狽える彼らを掻い潜り従順なる部下へと指示を飛ばす。
「ロウ! 叩きのめせ!」
「御随意に」
またしても繰り出されるロウの鉄の拳を片手で受け止めた隻眼の男は、掴んだ手に力を籠めた。途端、掴まれた男は顔を歪ませ、恐怖を形作る。
「悪いが」
ミシミシと音を立てて拳の骨が砕けていくのを、恐怖と痛みの中で反響させるのは男自身。
「力の質が違う」
鈍い音と共にロウの拳が文字通り潰れた。痛みに膝をつき肩で息をする男を一瞥した隻眼の男は、包囲されたメイグへと視線を向ける。
「次はあんたか?」
「……なるほど、多彩の瞳の持ち主か。シンの弟子は貴様だな」
「なつかしい名前だ、奴には世話になったよ。……もういないがね」
「他人の自殺に手を貸すぐらいだ、さぞやお人よしだろう」
「どうかな」
唇の端を吊り上げたメイグが指をならせば隣の地面から黒い炎が立ち上ぼり、中から竜牙兵の一団が姿を表した。ははは、乾いた笑いが上がる。
「そいつが作れるなら、あんたかなりのやり手だったな?」
白銀の剣が抜かれ、前傾姿勢で突っ込む。切り結ぶ男の足元から黒猫が飛び上がってヒトの形をとり、竜牙兵の頭を踏み砕く。瞠目するメイグの頭を捕まえて石畳へ打ち付け、慌てた騎士団の男が声を荒げる。
「殺すな!」
「殺してないよお」
次々と商人の一団が無力化させられるのを、シエロを含めた他の奴隷たちは夢のように見守っていた。
◇
やがて全員が騎士団によって連行されたのち、奴隷として捕まっていた彼らは解放された。
黒服の行き交う騎士団詰め所の中で自由を喜ぶもの、生活を嘆くもの、現実味のなさで立ち尽くすもの。シエロも同じで、これからの生活をどうすればいいのか、ほとほと困り果てていた。その中、渦中で助けてくれた男を廊下に見つけて駆け寄る。
「あの!」
呼び声に首を傾げて、それでも足を止めて立ち止まる。履かされた革靴が石床に擦れて音を立てた。
「助けて、いただいたのですよね? ありがとうございました……」
震えながら頭を下げる彼女に何を思ったか、男は顔をしかめた。
「ああ、うん。顔は上げてくれ、慣れないんだ」
恐る恐る頭を上げる彼女は改めて男を見る。緑髪に碧眼、片目の魔力は未だ禍々しく燻っているが、このヒトはこちらの話を聞いてくれるらしい。胸をなでおろす。
騎士団のヒト達はこちらのことなど眼中にない、売られた先のヒトビトと一緒だった。余りにも淡々としすぎて、近寄りがたい。
これから生きていくためのきっかけが欲しいシエロは、今は藁にもすがりたい気持ちだった。
「……シエロと、申します」
「シエロ。なんであんな奴らに?」
「……森を、焼かれて。それで」
男はますます眉を顰めて溜息をついた。びくりとシエロの肩が震えたが、意にも介さず男は淡々と告げる。
「そうか。じゃあ、さっさと誰かに保護してもらった方がいいな。ここじゃ奴隷売買はご法度になってるが、ああいう手合いはどこにでもいる」
特にあんたのようなキレイどころは売れやすいから、と商人と同じことを言った男は踵を返しかけ、シエロは思わずその服の裾を掴んで引き留めた。迷惑そうに振り返る男の目を真っ直ぐに見上げて言い切る。
「わ、私を買いませんか」
「はあ⁉」
このヒトならば、私を悪いようにはしない。半ば妄想に近い確信をもってシエロは目の前の男を見上げていた。紺碧の瞳が動揺に揺れている。顔が赤い。
「いや、俺」
「見知らぬ土地へ放り出されて、今私には何も持ち合わせがありません。ですが、この世界で生きていくために必要な物は山ほどありますわ。森ならいざ知らず、ヒトの世界にはお金が必要なのでしょう」
長らくヒトに飼われていた故に、シエロは他のエルフよりもその重要性を理解している。ひとまず身を護るために必要な物を早急に揃える必要があると判断した彼女は、目の前で狼狽える男でその第一歩を捕まえようとしていた。
「だからって」
「私を買いませんか」
頭一つ違う相手を睨み上げる。しどろもどろになりながら一歩ずつ後ずさる男へ詰め寄っていく。助けを求めるように視線を彷徨わせ、誰も相手にしないことがわかると、男は半ば投げ捨てるように叫んだ。
「……ッ、わかったよ! あんたに仕事を紹介する、これでいいか⁉」
◇
「冒険者?」
「そうとも。いくらかの銀貨を支払って、雑事を請け負うんだ」
仕事を紹介する前にいくらか己の用事を済ませてもよいか、という男の言葉に頷いたシエロは、彼の後をついて様々な街の施設を見て回っていた。
闘技場、雑貨屋、賢者の塔。下水道の一角を改造した盗賊ギルドには流石に戸惑ったが、男は気にした様子もなく用事を済ませて出てきた。
「そいつらのまとめ役、顔役といってもいい宿の主なら、まあ顔が広いから……アンタの仕事先を見つけてもらえるように頼んでみる。見つからなくても宿で給仕の真似事ぐらいさせてくれるだろ」
あの禿はお人好しだからな、と件の宿の扉をくぐる男に続く。
軋む床板、遠い昔に見たことのある発光装置と設置された大きなシーリングファン。薄暗い光と陽気なヒトの声で満たされた大部屋、点在するテーブルの上では昼間だというのに酒とカード、そして銀貨が積みあがっている。
カウンター席に座る様に促され、明るい髪色をした朗らかな笑みの給仕に事情を説明している男の背中から部屋を見渡したシエロは、己と同じ尖った耳を見つけて目を見張った。こちらを背にして他の冒険者たちと談笑している。
「エルフも、おりますのね」
「ん、あー……」
その言葉にうっかりしていた、と男が頭を掻いた。
「悪かったな、エルフの方が話しやすいか。……ヘルミナ! ちょっとこっちに」
来てくれ、という男の声が遠くに聞こえる。
――ご愁傷さま!
燃え盛る森を背後に哄笑する、血を垂らしたような赤い眼。こちらを振り返った女の顔を、忘れたことなど一度もない。
――せいぜいかわいがってもらえ。
次々とヒトによって捕まり檻に入れられる同胞|《ハイエルフ》を、嘲笑い見捨てて逃げた下等種族|《ローエルフ》!
蹴り飛ばした椅子が宙を舞って、給仕が驚いて振り返る。それこそ風のように飛び出したシエロの両手から火精霊が現れ、眼前の女に対して顎を開いて飛び掛かっていく。
「また随分なモンを拾ってきたじゃねェか」
だが、女にまとわりつく風精霊の鎧によって、飛び掛かった炎の蜥蜴は火花となって散らされた。口笛を吹いた女の眼前、息もかかりそうな距離で光輝く鎖によって戒められたシエロの瞳孔が開く。
「ロー……ヘルミナ……ッ!」
唐突な客人の豹変に連れてきた男は眼を丸くするだけだ。カードに夢中になっていたと思われた冒険者たちが、客人を油断なく伺う。数人はさりげなく片手をテーブルの下へと動かした。
続いて光精霊を召喚した少年を横目に捉え、ヘルミナは鼻をならす。
「よせよせ、このエルフにフォウの鎮静化は効かねェよ。なんてったって原始の存在に一番近いと自負するハイ・エルフなんだからな。ほぼ精霊みてぇなもんだ」
「邪魔をしますね、ハーフエルフ。……同じく《声》の聞ける存在が、ローエルフに与しますか」
「ついこの間まで、その下等種族にも劣る奴隷だったにしちゃ元気だな、ハイ・シエロ」
光る鎖、《縛鎖の法》が彼女の抵抗によりギチギチと音を立てた。耳障りな音に口の端を持ち上げるエルフ、シエロに言わせれば下等|《ロー》エルフであるヘルミナは立ち上がる。
突然の事態に目を白黒させながらも、男は――フィルは、腐れ縁に問いかけた。
「……知り合いか?」
「――昔、アタシを殺しそこなった女だよ」