Ⅰ ある日のこと。


 その日は雲一つもない晴天で、降り注ぐ陽光が全ての命を祝福しているような天気だった。
 先日の依頼による寝不足のせいもあったか、うっかり昼近くまで睡眠に費やしてしまったレベリアは、階下の食堂で遅い昼食だか朝食だかをとって一息ついているところを、何かのチラシを片手に鼻息も荒く階段を駆け下りてきた少女に捕まった。
 他のメンバーはすでに依頼に出かけた後で、宿に残っているのは寝坊した彼だけ。洗いざらした犬のようにぼさぼさした髪が上下に跳ねて興奮気味にまくし立て、僅かに残った彼の眠気を拭い去っていく。
「レベリアさん、聞きましたか! 大道芸人が来てるんですって!」
「大道芸人?」
「あたし、見たことないんですよ! ね、行きませんか、きっと楽しいはずです!」
 両手で握り締めたチラシを突き出して身を乗り出す少女の肩には、真鍮で出来た小鳥が大人しく止まっている。
 彼をその青い両目に映すと、人形は挨拶のつもりなのだろう高い声でひとつ鳴いた。

 部屋にこもって複雑な機工人形の中身や、硝子で出来た細長い実験器具やらを弄っていたかと思えば、面白いモノを見つけたからと外に飛び出し、ついでに謎の生物を連れて帰ってくる――好奇心が足を生やしたかのように、よく動きよく笑う娘。
 錬術師リーゼルは、この宿を常宿とする冒険者であり、レべリアをパーティに勧誘した一人である。
 煙るように柔らかく量の多い睫毛の奥から、大きな蒼い目が眩しいほどに輝いている。その様を見た男が少しだけ固まってしまったのを何と取ったか、彼女は有無を言わさず彼の腕を引いて宿から連れ出してしまった。
 普段は人通りが多いとは言えない宿の前の路地も、今日は特別なのか親子連れや仲睦まじい二人組などが楽しげに笑いながら歩いている。ヒトの話し声や楽器の音、祭りの賑やかさが大通り方面から風に乗って流れてきて、リーゼルはことさら機嫌を良くした。
「大道芸人と言えばアレですよね、羽根の無い鳥とか、火を噴く大男とか、首が三つある犬とかを見せてくれるという」
「リーゼ、見世物小屋と勘違いしてないか?」
「違うんですか?」
 娘と小鳥がそろって首を傾げた様子は小動物の仕草をレベリアに思い起こさせた。
 立ち止まって己とは随分と背の違う男を見上げる頭に、祭り事の常として花売りたちが撒いた花びらがくっついている。白い花弁をひとひら取ってやりながら、レベリアは苦笑した。
「大道芸人は芸を見せるんだ、何かや誰かを見世物にして金をとるわけじゃない」
「ふぅん……?」
 あまりピンと来ていない彼女を促しながら二人は通りに出る。大通りに軒を連ねる飲食店がこぞって出店を広げており、住民たちの殆どは飲み物や軽食、菓子を買い求めながらサーカスを見ようと集まってきていた。

 ◇

 人混みの中でもよく目立つ見知った後ろ姿を見つけた二人が声を掛ければ、呼びかけに振り返った人物はゆっくりと相好を崩し、踵の高い靴で器用に石畳を叩いた。(レベリアの知りうる限り、どんなに激しい戦闘であっても彼の人物のバランスが靴によって崩れたことはない)
 白と黒が反転した両目と、深窓の令嬢のように線の細い顔に入れられた刻印が特徴的な男の名はセティと言う。
 二人が所属するパーティ「墓掘り」のリーダーを務める男であり、リーゼルの昔からの知己でもあった。
 後ろで結わえられた長い髪を風に遊ばせヒトの間を流れるように歩いてきたセティは、頬を紅潮させて目を輝かせるリーゼルと、常よりもいくらか表情が和らいでいるレベリアを交互に見て得心したように頷いた。
「……これから二人で大道芸人でも見に行くのか?」
「はい! 良かったらセティも一緒に見ませんか!」
 頭一つ分低い桃色がぴょこぴょこと目の前で揺れるのを見守る男の表情は穏やかで、それを見たセティはうっかり砂糖の塊を喉に詰まらせたかのような顔をしたが、目を輝かせている彼女の期待を裏切ることはしなかった。
「……まあ、いいぞ」
「やったあ!」
 頭上に小鳥を遊ばせて、鼻歌でも歌いだしかねない機嫌のよさで歩く娘の後ろ頭を追いかけながら、男二人は並んで歩く。
 近所で評判のケーキ屋は値段が高いだの、宿の親父はまた新しい育毛剤に手を出しただの、二つ向こうの通りにできた新しい武器屋は質が良いだのと他愛のない話をしていれば、セティの視線が己とリーゼルへ交互に向くのを見たレべリアは怪訝な顔をする。
「何か言いたいことでもあるのか?」
「いや……卿とあの娘が良いならいいんだが。俺は邪魔ではないのか」
「は?」
「二人きりでなくともよいのか、と聞いている」
 青年の含みある物言いに、はたと気づいたレベリアが顔に血を上らせる。
 自覚できるほど熱くなった顔に手を当てて呻いた男の姿に、先ほどの意趣返しができたと涼やかな目元がにんまりと細められた。
「ちが、違う! 俺は今日一日、宿でゆっくりと過ごす予定だったんだ!」
「……ほう?」
「二人とも! おいていきますよ!」

 ◇

 なんとか人混みを掻き分けた先のテントで受付を済ませた三人は、手持無沙汰を誤魔化すための嗜好品を片手に観客席に座り込んだ。
 普段ならば粗悪品だと屋台の料理を好まないセティも、場の空気に飲まれたのか、二色のソースを掛けられ香ばしく焼かれた大ぶりな豚の腸詰と葉物の野菜が挟まったパンにかじりついている。
 入る途中にあった出店で苦いコーヒーと数個の揚げ菓子を購入し、クリームを浮かべた甘いココアを隣へと手渡すレベリアの視線は良く動く頬袋に釘付けになっていた。
 当の本人であるリーゼルは、買ったリング状の揚げ菓子を頬張りながら、落ち着きなく周りを見渡している。
「零すなよ」
「む、だいじょうぶです!」
 リスのように頬を大きく膨らませて口いっぱいに咀嚼している彼女の視線が、テント内部を興味深げに観察していた。気づいたレベリアが如何したと問いかければ、口の中のモノを飲み込み砂糖の付いた指先を客席に沿って走らせる。
「このテント、外から見たらあんまり大きく見えないのに、中に入るとたくさん人が座ってて不思議だなあって。魔術の一種ですかね」
「幻術の魔術触媒が設置されている。外から見るよりも広いのはそのせいだ」
 片手を占領していたパンを食べ終え、指についたソースを舐めとったセティが上を指し示す。つられて見上げた娘の頭の上で小鳥が居心地悪そうに場所を変えた。
 この世界において、魔術師が物に己の魔力と術式を封じ込めたものを魔術触媒と呼ぶ。中に込められた魔術を発動させるには展開するための魔力が必要だが、わざわざ大掛かりな魔術式を覚える必要のない手軽さから、戦いを生業とする傭兵や冒険者、一部の物好きな裕福層を中心に普及した。
 代表的なものとしては、魔術師を志す者が一番最初に取得する言語――現代魔術語で術式を書き込んだスクロールなどで、野営時の火起こし手段や戦闘での手数を補うために用いられる。セティが今指さしたものは、丸く磨き上げられたヒトの頭程度の大きさの石だ。
 レベリアがすり鉢状に配置された観客席の一番上から見渡してみると、一番下の広場がステージになっており、右手と正面には演者たちが出入りするための通路が開けられていた。
 指さされた上空、テントの天井付近には深碧の石が輝き、それを中心にして魔術が全体に張り巡らされているのが彼にもわかる。丁寧に編まれた魔力は触媒を作った魔術師が相応の実力を持つ証拠だろうと、隣で紅茶を呷る男が言った。
「触媒の魔力でここら一帯に魔術を展開させ、広く見せているようだな」
「なるほど……魔力は感じましたが、幻惑魔術ですか。無いものをあるものとして見せる術は、あたしとは相性が悪そうです」
 リーゼルの肩に降りた真鍮の小鳥が同意するかのようにさえずった。
 まず、物質ありきとして始まる錬金術は、実験器具の中でしか現れぬ反応――物質を錬成し、加工し、増殖させる反応を、四大元素の魔術に依って器具の外で発生させるものだ。
 特にリーゼルは錬成そのものよりも、錬成した金属による自動人形の設計、開発、製造を得手とする錬金術師である。術師というよりかは技師に近い。
「レベリアさんは気づきました?」
「魔力の流れは感じるが、他は同じくだな」
「エーベルハルト卿の操る魔術とは、理からして違うからな。無理もなかろうよ」
「さすがに詳しいな、教会の司祭殿は」
「元、司祭だ」

 ◇

 ほどなくして明々とした照明が落とされ、舞台上にスポットライトが当たる。強い光の中から派手な仮面で素顔を隠した男が現れて一礼した。音響魔術が使われた男の声は、ざわめくテント内によく響いてショーの開始を告げる。
「紳士淑女の皆々様、ようこそ我がサーカスへ!」
 男が動くたびに派手な衣装が光を散らし、大勢が座る観客席へと跳ね返る。どこからともなく道化師が飛びだして、身の丈ほどもある玉の上に乗ってステージ上を回り始めた。
 彼らが男を中心に一周し器用に頭を下げてみせれば、観客席からは拍手が巻き起こる。それを皮切りにショーが始まった。
 増やされていくナイフをジャグリングする女、頭上で行われる跳躍に綱渡り。猛獣を使役し鞭を鳴らす少年に、分厚い化粧で表情を隠した道化師たちがひっきりなしにステージ上へと姿を現す。ひとつのショーが終わるたび、娘は隣の男の腕を引っ張っては楽しげな声で感想を囁いた。

「では……ここでお客様の中からお二人ほど、ショーに参加していただきたいと思います!」
めまぐるしく繰り出されたショーが一段落すると、司会は声を張り上げた。中央を照らしていたライトは消え、テント内は暗闇に閉ざされる。
 流れてきたドラムロールと共にスポットライトが観客席を這いまわり、何が起こるのかと身を乗り出していた娘と、その隣でコーヒーをすすっていた男を照らして止まった。光が目を突き刺す眩しさに眉をしかめたレベリアは手で視界を庇ったが、隣のリーゼルは目を背けることもなく前を向いている。
「お願いしてもよろしいですか?」
 明るく照らされたせいで身に帯びた武具たちがよく目に付いた。セティの後方、帝国市民たちがひそひそと小声で囁きかわす。
「冒険者だ……」
 怯えも混じった囁き声にセティはそっと眉を顰めて横を向く。照らされた二人は聞こえていないのか、そこだけ穴が空いたかのように白く抜け落ちた光を遮りながら、レベリアがリーゼルへと問いかけていた。
「どうする」
「……やりましょう! 楽しそうですから!」
 娘の返事はことさら嬉しそうで、男の口から少しばかり疲れたため息が漏れるのを、隣の青年は居心地の悪さも忘れて笑った。
「面白そうじゃあないか。行って来い、骨は拾ってやる」
「おい……」
 薄い唇を引き曲げて手を振る仲間へ肩の小鳥を預け、大きく頷いたリーゼルは階段を降りていく。
 ステージに降りれば歓声が上がり、いつの間にか司会の隣へヒトが入れるほどの大きな黒い匣が鎮座していた。
「ルールは簡単、お二人には黒い匣の中に入っていただいて……」
 棺を思わせる狭苦しい長方形に座り込んだレベリア達を押し込めると、男は外から蓋を閉めた。視界が黒く塗りつぶされ、音響魔術で拡大された声が外から聞こえてくる。
「合図をした三秒後に匣へ向けて大きな火の玉が打ち出されます。上手く脱出できなければ彼らは黒焦げ、ヴェルダンの出来上がりです。皆様、お二人が無事に脱出できるようにお祈りください!」
 ひときわ大きな歓声が上がって観客全員を巻き込んだカウントダウンが始まった。
 一面黒で覆われた息苦しい匣の中、身じろぎをしたリーゼルが不思議そうに鼻を鳴らす。彼女が動くたびに短い髪が揺れて、日の光をたっぷりと吸い込んだ日向の匂いをさせていく。
 男はくしゃみを一つ落とした。
「うーん」
「どうかしたか」
「なんか、甘い匂いがして……。どっかで嗅いだことがあるような」
「前のショーの参加者が、香水でもつけてたんじゃないのか?」
「香水かあ……でもそれにしてはあんまりいい匂いじゃないですね」
 同意したレベリアも少し息を浅くした。薔薇の花が腐り落ちたかのように甘臭い匂いは、香水というにはあまり良い香りではない。
「(吸っていると胸焼けがしそうだな……)」
 次の瞬間、大きな音を立てて床が抜けた。落とされた二人は座った状態のまま下へと滑り落ちて行く。男が上を見上げれば、放たれた火の玉が今まで座っていた場所を燃やし尽くしている最中だった。
「随分と古典的な脱出方法だ。なあ、リーゼル……」
 話しかけても返ってこない相槌にふとレベリアは隣を見たが、そこに娘の姿はない。脱出の滑り路が分かたれていたのか、一時的にはぐれたらしい。
 いつの間にか甘い香りは消え失せ、漂ってくるのは生臭い刺激臭。冒険者にとって慣れ親しんだ匂いが彼の鼻腔を抜けていって、この滑り道が下水道へと繋がっていることを知らせた。
 暗くぽっかりと口を開ける地下へと滑り落ちて行く最中、ふと人の声が聞こえて男は耳を澄ませる。
 狭い滑り路では身が風を切る音で聞こえ辛いが、甲高く反響するのは女の声だ。誰かといさかいを起こしているのか、随分と激しい剣幕で罵っている。
 もっとよく聞こうと集中した途端、彼は湿った地面へと吐き出された。地面へ打ち付けた身を起こして眺め回せば、ところどころに見慣れた意匠を見つけることができる。ここが交易都市の下水道を利用した地下通路であることは間違いないだろうと、レベリアは壁伝いに歩き始めていく。
 等間隔に置かれた魔術灯に照らされる暗渠は薄暗く、時々聞こえる水音は他の場所と繋がっていることを彼に教えた。過去に終身刑囚の罰にも使われたという巨大な下水道は、何の準備もなく入るには危険極まりない。だが、壁には大きな矢印が書かれた張り紙がされており、迷い人を導いた。
 あの女性の声は何だったのかと首を傾げたまま歩を進める目の前に、団員の合図と共に入るようにという指示が現れた。先に到着したリーゼルは壁の手前で所在なさげに立っていて、彼を見つけると表情を明るくして駆け寄る。
 青白くあたりを照らす魔術灯のせいか、先ほどと比べて顔色が悪く見え、男は僅かに眉間の皺を深くした。
「レベリアさん! どうでしたか、感想は!」
「別段どうということもない。滑り落ちただけだったな」
「なんて淡白な」
「それより、そっちは大丈夫だったのか。顔色が悪いぞ」
 虚を突かれたのか丸くなる蒼、大きな瞳を覆うように柔らかな睫毛が合わされる。緩やかに弧を描く唇から明るすぎる声が飛び出て地下道にこだました。
「大丈夫ですよ! ちょっとはしゃぎすぎて疲れたのかもしれませんね!」

 他愛のない話をして過ごせば、団員が回転壁の向こうから入場を促した。薄暗い隠し通路を通されてステージ上へ戻れば、割れんばかりの拍手と共に迎えられる。
 レベリアの視界の端では、ヒトの悪い笑顔を浮かべたセティが他の客に混じって拍手していて、何とも言えぬ気分が心の内を満たした。
 この賑やかさの中ではさぞ興味を引くものも多かろうと、彼は身をかがめて隣の様子を伺ったが、娘はじっと思いつめたかのように――彼女が好みそうな賑やかさを生み出している観客たちや口笛や、他の団員たちへ興味を移すことなく――観客にむかって誇らしげに手を振る司会の男を見ていた。

 ◇

「楽しかったですね! ね!」
「そんなにか」
 興奮しきって足早になったリーゼルは、レベリアと話しながら常宿への帰路を歩いていた。
 途中まで一緒に歩いていたセティは先に帰ると言い残して去っていき、今は二人きりだ。今日の依頼達成報告をまだ親父に渡していなかったのだというが、ちらと二人に一瞥を投げかけた横顔は確実に「ごゆっくり」と語っていて、気恥ずかしさに閉口するレベリアの隣でリーゼルはじんわりと両耳を赤くした。
 娘が早足で歩く数歩を緩やかな一歩で埋めた男へ「ずるいです」と笑い声が上がる。
 冷たい空気に囲まれて橙に染まる街並みの中を追いかける長い影の数歩先、娘の細長い影が揺れていた。
 振り返らずに歩く短い桃色の頭が、夕暮れの陽と共に強く吹いてきた北風に晒されて少しのけぞる。ぼさぼさだった髪はさらにくしゃくしゃになった鳥の巣のようで、間の抜けた悲鳴が上がった。
 吹き飛ばされそうだなと笑ったレベリアは、白い指が絡まって滑り降りていくのを見守る。見ている間にも風は繰り返し強く吹いてきて、せっかく整えたのを台無しにしていった。やがてあきらめたように肩を落として振り返った彼女の苦笑いに、脳裏に蘇るのは先ほどの違和感。
 道化師の化粧を思わせる貼りついた笑顔に、男は見覚えがあった。
 これまでも何度か見た類の笑顔、もうどうにもならないことを無理に納得させようとして作る、娘が自分を騙すための笑顔だ。ふいに立ち込めてくる不安に足元を捕まれたレベリアは立ち止まったが、リーゼルは彼に気づかず背を向けて歩いている。
「リーゼ」
「はぁい」
 返事はすれども歩調を緩めない。男は不安を一層募らせた。
「何があった」
 ゆるりと微笑む気配と共に振り返る横顔は、夕焼けが眩しいのか今にも泣きだしそうな顔で笑っていた。
「おかしなレベリアさん」
 鈴の音のような笑い声が彼の頭の中で反響して周りに散らばっていく、極彩色の鋭く尖った硝子の欠片が目の前の道に振りまかれたかのように、男は足を踏み出すことを躊躇った。
 紅に照らされた建物たちが、濃い闇をはらんだ影を路地へと流し込んでいくのを目で追う。
 何を潜ませているのかわからない深い中へと迷いなく足を踏み入れるリーゼルの姿に我に返り、見失わないようにと手を伸ばす。黒々とした暗闇は、まるで化け物が待ち構えた獲物を嬉々として喰らうかのように広がっていて、男の喉はひりついた。
「なんにもありませんでしたよ」
 伸ばした手は指先一つ分足りずに、掴もうとした細い腕はするりと逃げ出していく。
 呼びかけても応えずに、聞こえていないように、前だけを見据えて歩く彼女の後ろ姿は視界の中で遠くなって、頭上で輪を描いて飛んでいた小鳥は声を上げることもせず姿を消していた。
「――リーゼ、リーゼ! 待て!」
 ――お前は何を隠している!
 叫んだ言葉は乾いた喉の奥に張り付いてしまって、口からは息だけが漏れる。前を歩く小さな背が知らぬ間に黒へ溶けてしまうのではないかという不安に押しつぶされそうになる。
 足を縺れさせる男の脳裏に浮かぶのは、そうなってしまう前に、己を置いていく前に、泣き喚く小さい子供にも似た癇癪でもって、細く白い首へと手をかけてしまいたい衝動だった。
 いっそ、いっそと心の内を満たしていく願望にも似た衝動を、頭を振ってやり過ごす。気を抜けば立ち止まってしまいそうになる己を叱咤し、必死に後を追いかけて宿への道を辿っていく男の影で、暗い何かが期待を湛え蠢いていた。

 ◇

 常宿にはすでに他の仲間たちが帰ってきており、賑やかな彼らの声によって迎えられた。
 変わりのない光景に安堵し、先に入っていったリーゼルの姿を探せば、カウンター席に腰かけて宿の娘と話している。
 肩には朝と同じように小鳥が大人しく居座っており、隣に座りながら横顔をそっと覗きこんだ男の姿に、蒼い双眸が瞬いて気づかわし気に首を傾げた。
「どうかしました? さっきからなんか変ですよ」
「……いいや、さっき顔色が悪かったから具合でも悪いのかと」
 頼まれた料理を運んできた宿の給仕がころころと笑いながら、リーゼルの目の前に並べていく。腹の虫を鳴らして恥ずかしそうに横目で見てくる姿に、ようやく心から安堵の息を吐き出した男は喉の奥で笑った。
「レベリアさんは、リーゼルさんのことになると過保護ですねえ」
「否定はできないな。……食欲があるなら大丈夫だろう」
「へへへ、聞かなかったことにしてください……」
 彼らの背後のテーブルでは、他の宿泊者たちが賭けに勝った負けたの大騒ぎをしている。積みあがった銀貨が崩れ、ジョッキの打ち鳴らされる音と喧噪。ますます明るくなる宿の中とは対照的に、すっかり暗くなった窓の外では、華やかだった祭りの残り香が花びらと共に漂っている。
「明日は晴れますかね」
「きっと晴れるさ」
 そうであってほしいと願うような響きを持つつぶやきに、レベリア自身が一番驚いて娘の頭をくしゃくしゃにしたが、彼女は顔を伏せてただ笑っていた。

 ――次の日、宿にリーゼルの姿はなかった。