Ⅱ 消えた仲間


「いなかったァ?」
 ランドルフの一言は静かな宿の中に乾いた音を立てて落ちる。
 準備を終えた他の客たちが何事かと視線をよこすが、彼らが冒険者であることに気づくとそっと目をそらした。

 朝の宿屋に人影はまばらだ。いつもならば仕事を求める冒険者たちでごった返す酒場兼食堂には、宿の亭主と常駐パーティ「墓掘り」以外、旅立つ用意を終えた宿泊客しかいない。
 燃えさかる炎を思わせる橙髪色の男、パーティの盾であり護衛騎士たるランドルフは、大柄な体躯を乗せた椅子の後ろ脚だけで器用にバランスを取って、咥えた煙草の煙を吐き出した。
 たった今下りてきたレベリアに胡乱げな目を向ければ、白い煙が広がって消える。
「見間違いじゃねえのか、旦那」
「あの狭い部屋でどうやって見間違えるというんだ」
「えぇ? どうせまた徹夜で整備してて寝落ちたとかじゃないの、ちゃんと探した?」
「以前は自動人形外装の中で寝ていたな」
「どこでも眠れるってうらやましいよ」
 ヒトの瞳を模した文様の描かれる黒い布で目元を覆った男が、興じていたカードを机の上に投げ捨てて階上へと向かった。後に続こうと立ち上がったレベリアへ宿の亭主が食事をしてからにしろと釘を刺し、彼は大人しく定位置に座る。
 すぐさま目の前に亭主手製のパンと屑野菜のスープが差し出され、手際の良さに瞬きを一つ落とせば笑い声が降ってきた。
「医師はその身を疎かにしすぎる故な、縛り付けてでも食わせろとの厳命よ」
 皿を差し出してきた女がにたり、と笑う。今はあまり人目がないからなのか、いつも被っている赫いフードを外して銀色の髪を垂らしていた。
 弧を描いて歪む金の瞳は彼女がヒトではないことを声高に主張しており、他の客の中には左目が火傷の痕で塞がった――厳密にいえば封じられた容貌を忌避するものも少なくはないが、竜の価値観を持つ彼女にとっては些細なことだ。
 彼が目の前に出された皿に手を付けている間に、先ほどの黒いコートの男、武装召喚術師ハンクが首を傾げながら戻ってきた。
「レベちゃんの言うとおりだね、どこにも居ない。いつも通りのごちゃごちゃした部屋だったし。荷物と装備が綺麗に置かれてたのが、ちょっと気になったかなあ」
「昨夜に用を足しに行ったときは部屋に明かりがついていたから、居たはずなんだがな」
「いつの話?」
「真夜中すぎぐらいか」
「親父、何も聞いてねェんだな?」
 カウンターに振り返ったランドルフが問えば、親父は皿を吹く手を休めずに答えた。
「ああ。一人で依頼を受けるだの、朝から出かけるだのとは何も聞いとらんな」
 親父の言葉に面々は顔を見合わせる。今日は全員で動くと事前に告知されていたため、何も言わずに一人だけで依頼を受けるとは考えにくかった。
 そして、大概リーゼルが一人で動くときにはロクでもないことに巻き込まれることを全員経験から知っている。ましてや前例があるのだ、ふらりと立ち寄った雑貨屋で購入したとかいう鏡の一件も含めて。
「面倒ごとかァ」
「面倒ごとだな」
「レベちゃん、もう首輪付けて手放さないで」
「無茶を言うな」
 食事を早々に終わらせたレベリアは立ち上がり、それに続いて他も各々身支度を整えた。注文を他の宿泊客に運び終わった宿の親父が、扉に向かって歩き去る背中に声をかける。
「今日中にカタがつきそうか?」
「飯は全員分で頼む」
「わかった。気を付けろよ」

 ◇

 宿から一歩踏み出した交易都市は昨日と同じく明るく陽で照らされているが、そこで暮らすものほど強い光が内包する影の暗さをよく知っている。この場所は帝国にとって経済の要となる主要都市であり、他国との貿易にも使用される故の重要性は他都市も遠く及ばない。
 だが、交易するのはなにも真っ当な品々ばかりではなく、ごく一部の暗がりには人買い、売春、違法物、およそあらゆる全ての悪徳が軒並み揃うことも、時に非合法な手段を取らざるを得ない冒険者らはよく知っていた。
 安宿に間借りする賤業者が一人消えたとしても誰も気にはしない。だからこそ、彼らは繋がりを何よりも大事にする。――それは「墓掘り」とて例外ではない。
「で、どこから探す」
「……さて。エーベルハルト卿、気づいた点は?」
「先日の大道芸人を見に行ってから様子がおかしかった……と思う。断定はできないが」
「では、そちらは卿に任せよう。俺は常駐騎士団をあたる」
「騎士団?」
 甲高く非難がましい声を上げたハンクが、押さえた魔術礼装の下で盛大にしかめ面を作った。
 大型の妖魔退治に引き出され見事それを成し遂げたが、己の手柄を横取りした同僚を殴り倒して団を抜けた元騎士団員の彼は、かつての職場を蛇蝎の如く嫌っている。
「役に立つとは思えないけど?」
「なに、情報は多い方がいいだろう。それに騎士団には知人が居てな、奴には貸しがある。頼めば拒みはすまいよ」
「ンなら、俺ァ他の連中にも声かけてみるわ」
「頼んだ」
 消えたリーゼルを探しに交易都市へと散る仲間達を見て、レベリアもまた、己と別れた後で彼女に何があったのかを調べるために、大通りへと足を向ける。
 
 昨日の混雑が嘘のように人の少ない大通りを歩く彼の表情は暗い。地面に置き忘れられた新聞には「ナゾの失踪!」「騎士団もお手上げ」などという見出しが躍っている。杞憂であると思い込んだ己が愚かだったかと溜息をつきかけた彼の眼に、昨日彼女が手にしていたチラシが映り込んだ。
 両脇に並ぶ店舗の壁に貼られていたそれらによれば、大道芸人たちの滞在は今日で最後らしく、明日にはもう次の街へと出立する予定となっている。
 大通りの先にある広場、帝国建国者の彫像が勇ましく剣を掲げ、ヒトの手の入った草木が整然と並んだ公園には、白と青で彩られた縦縞のテントが張られている。
 裏口では準備に追われた団員たちが慌ただしく出入りしており、レベリアと話をする余裕はなさそうだ。
 様子を横目に睨みつつ、先日落とされた地下道から内部へ侵入できないかと思考を巡らせている男の服の裾を誰かが引っ張る。
「オジさま!」
「やっぱりおじ様だわ!」
 見分けのつかない揃いの顔を見合わせて交互に繰り返される喧しい彼女らの声は、人通りの多くない公園によく響いた。胸元に飾られた真新しい十字架が日の光を受けて鈍い色で光っている。
「メタトに、アズリーか」
「そうよ、私がメタトよ!」
「違うわ、私よ!」
 よく似た声で己こそが片割れであると主張する彼女らを遮って、笑いながら指摘する。
「俺の服を引っ張ったのがメタトだろう。アズリーは嘘をつくときに必ず手首の内側を掴む」
「まあ! まるで探偵さんみたいね!」
「神父様は騙されてくれるのに、おじ様はちっとも騙されてくれないのね!」
 揃いのワンピースを着て首からロザリオを下げる少女たちは、首元に飾られた大きな赤いリボンを揺らしてくすくすと笑い合った。

 メタトとアズリーは、針葉通りの孤児院に拾われた双子だ。
 近所でも評判の悪戯姉妹として有名であり、気に入らない誰かの飲み物にタバスコを大量投入する、虫が嫌いな掃除婦の目の前で芋虫をぶちまける、神父の眉間の皺にギフトカードを挟むなどの悪行は数知れず、有志による針葉通り要注意人物リストにもしっかり名前が載っている。
 以前「墓掘り」は彼女らの依頼を受けて、針葉通りの切り裂き魔を捕まえたことがあった。その際に双子はレベリアを大層気に入って宿に押しかけるようになり、今に至るまで彼女らとの交友は続いている。
「おじ様、どうしたの? もうピエロさんたちはショーをしないんですってよ」
「残念だわ! とっても残念よね?」
 顔を見合わせた双子は探るように見上げてくる。時折、何もかもを見透かしてしまうかのような子供特有の眼を持つ彼女らの扱いが、レベリアは大層苦手だった。
「ああ……そうだな……」
 言葉を濁す彼に構わず、子供たちは何か面白いモノを見つけたかのようにはしゃぎ始める。揃いの赤が交互に跳ねた。
「あら、あら、アズリー気づいた?」
「ええ、ええ、もちろん! おじ様、昨日は舞台に上がってらしたわね!」
「……見ていたのか」
「私たちが顔の怖いオジさまのこと、見間違えるはずがなくてよ!」
「隣にリーゼルお姉さまも見えたの、顔の怖いおじ様に間違いなくてよ!」
「そうか……俺はそんなに顔が怖いか……」
 ひっそりと傷つく彼の心中など彼女らにわかるはずもなく、無邪気な残酷さは胸を抉る。
 どこか気落ちした様子のレベリアを不思議そうに眺めていた二人は、隣にいつもの人物が見えないことに気づいて表情を曇らせた。
「今日はお姉サマと一緒じゃないのね」
「いつも一緒なのに……喧嘩したの?」
「ああ、いや。そういうわけじゃないんだ」
 気づかわしげに投げかけられた疑問を慌てて否定した姿に思うところがあったのか、メタトは少しだけ首を傾げた。焦げ茶の瞳は真意を測りかねてレベリアを真っすぐに見ていたが、彼はそれを曖昧な笑顔で誤魔化す。

 ◇

 彼女らのおしゃべりは寝起きする教会のうわさから始まり、針葉通りに新しく越してきた一家の長男が双子を泣かそうとして逆に泣かされた話で終わった。
 矢継ぎ早に繰り出されるおしゃべりから解放され安堵するレベリアの後方から団員の話し声が聞こえる。
「……そうだわ、おじ様。今朝のサーカスってちょっと変だったのよ」
アズリーが突然思い出したかのように言った。
「そうよ、変だったわ」
「変だった?」
 頷いた双子は傍の花壇に腰かけると、下げたポーチからひとつ飴玉を取り出して口に放り込んだ。
「今日は私たち、早起きしてミルクの配達を頼まれたのよ」
「そしたらね、ちょうどテントの中で男の人が大声で話しているのを聞いたの。やっとニエが見つかったとか言ってたわ。ショーの練習にしたって、まだお日様も昇ってないのにと思って覚えていたのよ」
「ニエ……贄?」
「そうそれ」
 足を地面から離してぶらぶらと動かしながら口の中で飴玉を転がす双子を見下ろしたレベリアは、言葉の意味を考える。贄。
「……他に何か気づいたことはないか」
「んっと、他にはね。大きな黒い匣がテントから運び出されるのを見たわ」
「昨日オジさまがお姉サマと一緒に入った匣よ。私よく覚えているわ」
 レベリアはしばらくその時の様子を双子に詳しく聞いたが、運び出したという人物については霧が掛かったように曖昧になっていった。そもそも彼女らが言うには、黒い匣を運んでいたのが一体、男であったか女であったか、子供であったか大人であったか見えなかったというのだ。
「見たのは覚えているのよ」
 アズリーが言えば、メタトが頷く。
「でも、白い霧のようなもので覆われてて、見えなかったの」
 おそらくは幻惑魔術が掛かっていたのだろうと、レベリアは昨日のセティの言葉を思い出した。
「つまり今朝方、このサーカスから黒い匣が運び出されたと」
「ええ。大声を出していたのはたぶん団長さんだわ、魔術なんか使わなくても声が大きいのよ」
 申し訳なさそうな双子に情報の礼を言ったレベリアは、その足を雑多で猥雑な建物が詰め込まれた区画へと向かわせた。いつもとは違い大股で歩き去る彼の後ろ姿を見送りながら、双子は顔を見合わせて囁き合う。
「珍しいわ。……焦っているわ」
「どうしたのかしら」
「お姉様いなくなっちゃったのかしら? 嫌だわ、そんなの嫌よ。ねえアズリー」
「私もよ、メタト」
 大きな瞳を瞬かせて明るく笑う年上の友人を想って、二人は繋いだ手を固く握りしめる。後方でサーカスのテントが風に煽られて膨らみ、長く伸びた影が石畳を覆っていった。

 ◇

「雪だるまは彼に何と言った?」
「ニンジン臭い」
 カチリと鍵が開く音がして見た目の通り重たい扉が開く。広い額と小さな目を持つ扉の管理人は、レベリアの姿を認めると鼠のように残念そうな声を上げた。
 如何わしい建物の陰に隠れるように設置された階段を下りた先は、非合法な商売を専門とする者たちが集まる地下酒場。下水道の一角を改造したこの場所は盗賊ギルドお墨付きの情報売買所でもある。
 であれば、アズリーたちが見た匣や、大道芸人のテントへと繋がる地下道の情報も持っているだろうという見立ての下、レベリアは酒場の隅でグラスを傾ける女へと歩を進めた。
「ミセス・ドランカー」 
 大ぶりの耳飾りが揺れる。
「ご婦人なんてよしておくれよ、腹が捩れちまう」
 吊るされたガスランプの炎は店内の陰影を濃く浮き上がらせる。酔っぱらい、と称された女は特に気を悪くした様子もなく、彼に向き合って相好を崩した。
「久しぶりねェ、闇医者。相変わらず世界の果てを恨んだような、辛気臭い顔をして何よりだ」
「無駄口は後にしてくれ、今は仕事の話だ」
「つれない男だよ」
 レベリアがドランカーに事の経緯をかいつまんで話せば、彼女は手を叩いて笑った。陰鬱な雰囲気に満たされた地下がその瞬間だけ華やぐ。
「傑作だ! なるほどねェ、あの娘も同じ色をしていたから、ありえないことじゃないか」
 一人で納得気に頷く女に説明を求めれば、片手が差し出される。赤く塗られた爪と美しい装飾の施された金の指輪が照明に照らされて、五本の指が何かを招くように蠢いた。
 渋い顔で銀貨が詰まった袋を置けば、重さを確かめるように手を揺らし、にんまりと笑った赤い唇から弾んだ声が飛び出す。
「毎度。金払いの良い客は好きさね」
「で? どういうことだ、ドランカー」
「最近の話でね」
 女は今しがた懐に収めた銀貨を抜き取って新しい酒を注文した。すぐさま年代物の醸造酒がボトルごと運ばれてきて、新しいグラスに並々と琥珀色の液体が注がれる。細かな銀粉が覆うような赤で塗られた指が目の前の空席を示す。
「不可思議な誘拐事件。蒼い目と桃色の髪を持つ若者たちが忽然と姿を消しては、失踪していた間の記憶を失って戻ってくる……。気味の悪い話だが常駐騎士団は動いていない」
「俺たちならともかく、帝国市民が消えているのに騎士団が動かないだと?」
「まあお聞きよ。一杯どう?」
「いらん」
 座ったレベリアに差し出したグラスを引き寄せ、女は語った。
「……騎士団が動かないのは、おおよその犯人がわかっているからなのさ。アンタがお尋ねの大道芸人クラーメルサーカス、彼らが犯人だ」
「さっきも言った通り失踪している間の記憶がないだけで他に実害はない、攫われた奴らは全員無事に戻ってきているから、不可解なだけで問題なしと放置しているんだろうね」
「給金泥棒だな」
「フォローするつもりはないけど、騎士様にも事情があるのさ。……ここからが本題でね、サーカスの奴らは、とある血筋の子供を探している。ねェ闇医者、守護都市ミルスについて聞いたことはないかい?」
 聞いたことはある、と男は記憶を掘り起す。
 守護都市ミルス――帝国領最南端、毒ガスを噴き出す険しい岩山で四方を囲まれ、古竜種すら傷一つ付けられぬという古代素材で建造された城壁を持つ城砦都市。
 教会の威光も届かぬ未開の地の蛮族や妖魔たちから帝国を守り続けてきた防衛の要として有名で、そこに住む人々は皆、毒に対して若干の耐性を持つという。
「あんな田舎に何があるというんだ」
「アンタが思っている以上に、あの田舎は今ヤバい状況にあるのさ」
 彼の地では妖魔が凶暴化しているのだとドランカーは語った。
 南方の妖魔たちは酷く凶悪な性質をしており、今まで彼らの被害が深刻化しなかったのはその地を治める辺境伯「ヴァルム」と、古より妖魔どもを魔術によって封じ続けてきた守り人「アルジェベド」の両家が尽力してきたからである。
 特に後者、守り人アルジェベドの果たす役割は大きく、数十年に一度、彼らは妖魔の凶暴化を抑える大々的な封印を施すため、ある儀式を執り行ってきた。
 ――だが。

「アルジェベドは儀式を行えなかった」

 封印術の要である贄が逃げ出したのだという。


「双子が見た黒い匣、アレは魔道具「クラーメルの柩」だ。予め組み込んだ術式で内部に入ったヒトの生体構造と魔力の質を覗き見る趣味の悪い品だよ」
「サーカスの団長は南の地の出身者で、元はアンタと同じ冒険者だった。魔道具の類にも明るい。その縁あって彼らはアルジェベドが逃してしまった贄を探しているんだ」
「封印術が為されなければ、大量に攻め寄せる妖魔は凶暴化したまま。軍隊の消耗に切羽詰まった辺境伯は、帝国中央に援軍要請を出した。そのせいで南の地はおろか、帝国騎士団中枢は大混乱」
「では、攫われた奴らは」
「逃げ出した贄の外見と合致したんだろう。戻ってきたところを見るに、ソイツらは贄じゃあなかったってことさ」
 喋り終えた女はグラスの中身を傾けて唇を湿らす。
 丸くカットされた氷があちらこちらへ光を照り返すのを見ながら、レベリアは額に手を当てて俯いた。篝火に明々と照らされた娘の顔が思い浮かぶ。

 ――レベリアさんなら、どうしますか。
 ――あたしがどっかに行っちゃったら。

「まァ、騎士様や国のお偉方が躍起になる問題なんて、アタシらとは別の世界の話さね。そんな思いつめなくても、探し人はそのうちに帰ってくるんじゃあないかい?」
 サーカスが攫った人々を運ぶために使っていた地下ルートの情報を渡しながら、ドランカーは濡れた唇で笑う。
 だが、暗い目の奥で何かに気づいた男は黙り込んだまま、乱雑に追加の銀貨袋を置くと踵を返して酒場を出ていった。
 叩きつけるように閉められた扉が立てた音に驚いた管理人は、呷っていた酒にむせて零してしまい、男の背中を睨みつける。女は肩を竦めて管理人へ代わりの酒をくれてやった。
「……本当にアンタは変わったよ、レベリア」
 暗く狭い階段に響く足音と背を見送って、琥珀色の液体をぐいと飲み干す。空になったグラスの中で溶けかかった氷の玉は小気味いい音を立てて転がった。
 喉の奥を焼け付かせたドランカーは、かつて彼が闇医者と呼ばれていた頃の姿を思い出して長いため息を吐き出す。
「石像みたいな男だと思ってたんだけどね……」
「曇ったおたくの観察眼は当てにならんね」
「うるさい」
 予備動作もなく投げつけられたナイフが鋭い音を立てて管理人の目の前に突き立つが、卑しい笑いを浮かべた小男はぎょろりとした目を回し、口をもごもごと動かして火に油を注ぐ。
「おおこわ、負け犬が吠えよる」
 叩きつけられたグラスの中で、丸く削られた氷が細い悲鳴のような音を立てて真っ二つに割れた。

 ◇

 宿の扉を蹴破らんばかりにして戻ってきたレベリアは、いつもの定位置で難しい顔のランドルフと話し合っていたセティの胸倉を掴み上げる。らしくもなく荒々しい態度に宿内は騒然となった。
「貴様は知っていたな、セティ・ライルズ・ヴァルム。あの娘が俺に何を隠していたのか」
 目を丸くして驚く橙髪の騎士とは対照的に、掴み上げられた当の本人は落ち着き払って怒りに燃える二藍を見ている。
「卿に教えたところで何か変わったか?」
 言い放つセティの頬をレベリアは力一杯殴り飛ばした。
 食器が派手な音を立てて割れる。殴られた衝撃で口内を切ったのか赤い雫が顎を伝って、殴られた青年はよろめきながらも無感動に手の甲で拭った。もう一度拳を振り上げた男の腕を、慌てたランドルフが掴んで止めさせる。
 医者としての性分がそうさせるのか、レベリアが己が身を大事にしない相手に対して容赦がないことは周知の事実だ。
 だが、そうでない相手に対しては――伝わるかどうかは別にして――紳士的な対応を崩さない彼が、冷静さをかなぐり捨てて誰かに当たるなどという光景は、誰もついぞ見たことがなかった。
「よせ、旦那!」
「放せ、アルター! コイツは知っていて黙っていたんだぞ、彼女が何を背負い、何を抱えて生きていたのか! どこに連れていかれるかも知っていながらッ……見殺しにしたようなものだ!」
「まだリーゼルが死んだと決まったわけじゃねえだろっ、落ち着け!」
 憤怒に歪む表情を冷ややかに眺め血の混じった唾を吐く、整った顔には何の感情も表れてはこなかった。

 セティ・ライルズ・ヴァルム。南の地の辺境伯「ヴァルム家」の長男であり、後継者争いを自ら放棄したが故に実の妹に殺されかけ逃げ出してきた元貴族。
 リーゼルがアルジェベド家の娘であり、贄の子であるという事実を、彼は当然知っていた。
 彼女が消えたと知ったセティが真っ先に騎士団へ向かったのは、南の地がどんな状況にあるのかを確かめるためと――贄の子を取り戻した守り人が、いつ儀式を行うかを調べる為だった。
「度重なる妖魔の侵攻で帝国軍も疲弊が色濃い。よって、遅くとも数日後には儀式が行われる……そのような見立てだった」
「何故、隠していた!」
「リーゼルが望んだ、仲間たちを己の呪われた血と因縁に巻き込みたくないと。この事実を他でもない卿だけには、知ってほしくないのだと」
「どいつもこいつも勝手なことを。ヒトの命を何だと思っている! 命とは貴ばれるべきものだ、そんな簡単に投げ捨てていいはずがないだろうが!」
 吼える男の拳は怒りで震えて、深いアメジストは強く燃え盛る。黄金の如く強く輝かしい炎が照らす夜の影に紛れて命を摘み取る闇の落とし児たち、死の祝福を受けた家から飛び出してヒトを助けるために医者になった男の、それは切実なる願いだった。
 命を大切にする、当たり前のことだ。当たり前のことがなぜこんなにも難しいのか、男はわかりたくなかった。
 だが、貴い血を持つ者は多数のために義務を負うべき者であると言い続けられてきた青年は、ある現実を突きつける。
「……あの娘が救えるはずだった命を見殺しにするとでも思うのか。何よりも命を、ヒトを重んじる卿の考え方に寄り添い続けたリーゼルが、己の命一つ差し出すことを躊躇うとでも思うのか?」
 レベリアは言い返そうとして口を開くが、出てきたのは言葉にすらならない呼吸だけだった。
 彼のより近くにいた娘は、彼の考えを理解し共感し支えてくれる一人だった。かつて共にいた親友と同じか、それ以上に。
 なればこそ彼の考え方は彼女を死へと追いやった、少なくともレベリアにはそう思えてならなかった。
 本当に責められるべきは目の前の青年ではない、己自身である。
 激情に晒されて歯を食いしばり肩で息をする男を横目に、セティは箒で床を掃く宿の娘に仲間の非礼を詫びた。掴んだ片手を乱暴に振り払われたランドルフが口を開く。
「アイツ、死ぬつもりなのか」
「アルジェベドの封印術について俺も詳しいわけではないが、彼女は贄だ。そう考えるのが妥当だろうな」
 静まり返った三人を気にしながらも、宿の給仕は掃き集めた陶器の欠片を片手に厨房の裏手へと戻っていく。その姿が扉の向こうへと消えるのを見ていたランドルフの背中に、泥濘のようにどろりとした真っ黒い声が圧し掛かった。
「死なせるものか……」
 背中から身体全体を覆いつくすように滴るそれが、質量を持たない言葉だと一瞬遅れて理解した彼は振り返る。顔を覆った指の隙間から見える眼が浮かべた狂気にも似た光に、ランドルフは一歩たじろいだ。
「……旦那?」
「連れ戻す、絶対に。認めるものか、認めるものかよ、あの娘が俺の知らない場所で終わっていくなど、俺の見てない場所で死んでいくなど、断じて認めてなるものか!」
 見開かれた二藍の瞳の奥に凝るのは執着の泥。
 身を守るにしてはあまりにも柔らかい殻をまとった彼女を潰してしまわぬように、白い真綿でくるまれたかのような幼気な彼女を誰かが傷つけてしまわぬようにと手を尽くしてきたのに、彼女の姿も、死も、どす黒く爛れた己の手から奪われて欠片すら残らない。それは男にとって赦されざる暴挙であり、また、心の裡で守り育ててきたリーゼルへ抱く感情の冒涜に他ならなかった。
 目を見開き歯の根を鳴らして荒い呼吸を繰り返す男の姿を、じっと見つめながらセティが口を開く。
「……否定するのか、他でもない卿自身が」
「知ったことかッ! リーゼは、あの娘の死は、俺の手の内にあったものだ! 俺がいずれ手にするはずだったものだッ! それを奪い取ったやつらを生かしておく道理などない!」
 血を吐くような激情に静まり返る宿内へ、扉のベルが喧しく音を立てた。

 ◇

「間抜け野郎め! 娘はとっくの昔に連れていかれたよ!」
 大道芸人のテントの中で薄暗い広場の真ん中に膝をついたフーゴ・クラーメルは、苦しげに細った息の下、黄ばんだ乱杭歯を剥き出しにして笑った。
 息せき切って宿内に飛び込んできたハンクとカタジナは、レベリアたちの姿を見つけると、大道芸人たちがもう既に出立の準備を整えていると知らせた。彼らもまた、失踪事件についての情報を集めており、大道芸人たちの動向を見張っていたのだという。
 ドランカーから買い取った情報で地下道からテント内に侵入した冒険者は、逃げるように荷物を畳んでいたクラーメルサーカス団長、フーゴと対峙した。
 今まさに都市を出ようとする団員達と少々手荒な交渉事――邪魔者を排除しようと向かってくる団員たちを片端から叩きのめした冒険者に、フーゴは闇魔術で引き起こされる痛みに脂汗を流しながらも、目的の達成を教える。
 ――即ち、贄の子供はすでに守護都市へ連れ去られた後であると。
 ひきつけのような笑い声に苛立ったか、レベリアが彼の頭上に掲げていた手で拳を作る。闇が煮凝った魔力の流れが勢いを増し、縄となって男を縛り上げる。
 魂そのものを引き絞られる痛みに、声にならない悲鳴を上げてのたうち回った男の整えられた衣装は無残にも土に汚れた。
 憤る仲間の肩に手を置いて宥めながらも、目元を覆う黒い布の下を強張らせたハンクが屈みこみ問いただす。
「誰が連れて行ったの?」
「守り人の一員だっていう女が嬉々として引っ張っていったぜ。どうにもヤツは小娘が気に入らないみたいだったなァ、見てるこっちが気の毒になるほど小娘を責め上げててよォ。女ってな怖えなァ」
 緩慢な動きで体を起こしたフーゴは、歪んだ笑みを張り付けて自らを見下ろす冒険者たちを見渡した。これ以上の有益な情報が出ないとわかったハンクが首を振り、レベリアは渋々魔術を解いていく。
 常よりもさらに目つきを悪くする彼を一瞥したフーゴは、衣装についた土と埃を払って立ち上がり、御伽噺に出てくる性悪な狼の笑顔を消し去って、傍に転がっていた仮面を拾い上げた。
「……あの娘は連れ戻されることを望んじゃいないだろう、そもそも連れ戻してどうするんだ? アイツが死ななけりゃ南の地は妖魔で溢れかえって軍隊は壊滅。いずれ奴らは交易都市だってグチャグチャにして、お前らの宿だって無事じゃ済まねえ」
「己の為にも他の為にも、死んだも同然な小娘一人すっぱり諦めて、新しい仲間でも探したほうが有意義だと思うがね」
 緩やかに弧を描いた口から吐き出される答えは、彼らの間に冷え冷えとして横たわる。
「オイオイ、そォんな睨むなよォ。オレ、なんか間違ったこと言ってるかァ?」
 カタジナが低く唸る獣のように口の端から炎をちらつかせた。彼女の傷跡の淵が燃え広がる前に、趣味の悪い背広を整えた男は背を向けて叩きのめされた他の団員の元へと向かう。
 血が滲むほど固く握り締められた手が解かれる前に、彼らの背後、テントの入り口付近から場違いな明るい声が響き渡った。
「フーゴがやられたと聞いて来てみれば大変結構なお話ですねえ! 民衆受けするでしょう、皆が死なないように犠牲になる少女の話など。あるいは新しい聖女の姿が浮かぶかもわかりません。もっとも、彼女の犠牲は殆どの人々が一顧だにしないからこそ貴ぶべきものなのですが!」
 黒く塗りつぶされたシルエットの中で、蝮の腹のような赤い舌が叙事詩を諳んじるかのように蠢いた。
 声を受けて不機嫌そうに振り向いた団長が、長く伸びた影を作る細身の姿を見るや否やしかめ面で追い払うかのように手を振るが、シルエットは我関せずとばかりに冒険者たちに向かって真っすぐ歩いてくる。
 逆光の中から近づいてくるにつれて、その影が一人の小柄な少年であることを冒険者は認めた。体躯には不釣り合いな、大きく丈夫な革のトランクの中からは、何かのすすり泣く声が聞こえてくる。
 肩の辺りで切り揃えられた浅黄色の髪を揺らして、少年は恭しく一礼した。
「やぁ、皆さま初めまして。僕はイドゥリ、イドゥリ=アルクネ。虚構の中に真実を見出す者」
 ぱっくりと開いた三日月から覗く蛇の目が、彼らを品定めするかのように嘗め回した。
「へえ、うん、悪くないな……新しい英雄としては些か華に欠けますがね」
「……なんだお前は」
 仲間へと向けられた不躾な視線に眉根を寄せたセティが、長剣の柄に手を掛けて突然の乱入者に対する露骨な不信感を現した。ハンクが小声で呪文を呟き空間へ魔法陣を描けば、円陣の中心からは銃身が突き出され、全ての撃鉄は起こされて乱入者に向けられる。
 警戒の構えを解かない冒険者に対して、イドゥリと名乗った少年は細く閉じられた目元を綻ばせ、嬉しそうに両手を広げた。
「こう言えばお判りでしょうか。……南の地から代理人として参りました」
 少年が言うか言い終わらないかのうちに踏み出したセティの動きは早かった。
 開き切った瞳孔は縦に伸び、少年の喉元を狙い抜き放たれた白刃が繰り出される。だが突如として地面から生えてきた蔓によって阻まれ、四肢を縛り付けられた。空中から突き出された銃口にもやはり細い蔦が絡まり、部品の間をみっしりと埋め尽くしている。
 困惑する冒険者たちの頭上で、軽やかな少女の笑い声と共に、美しく輝く花が咲く。
「樹精霊……精霊術師か!」
「失敬な、同胞を使役なんてしませんよ。……さて、月並みな台詞ではありますが、この方の命が惜しければ武器を下ろしていただきましょうか。僕は別に貴方たちと事を構えに来たわけではないので」
「誰が貴様の言うことなどッ……」
「貴方には聞いていないのですよ、セティ様。僕はエーベルハルト様とお話に来たのです。アルジェベドの件でね」
 アルジェベドの名に反応して構えていた錫杖を下ろすレベリアに満足したのか、イドゥリは頷いて他にもそうするよう促す。下ろされ納められた武器たちを興味深げに眺めた後、セティを捕らえていた蔓は地面へと吸い込まれるようにいなくなった。

 彼は背で手を組み、その場をのろりと歩き回り始める。
「僕もこう見えて冒険者でしてね、各地の伝承や逸話を命懸けて追う夢想家でもあります。僕はある伝手から、南の地にはまだ魔女がいるという噂を耳にしました」
「魔女と言う存在はご存じですか? 僕らが目覚めるずっと前から存在してきた古の支配者、力ある者ども。ですが、他でもない禁術の守り人たちによって秘匿されていると言われています」
 気の良い隣人のように笑みを絶やさない少年の眼が、うっすらと開いていく。
「貴方が必死になって取り戻そうとしてらっしゃるお嬢さんが、アルジェベド家に生まれた贄の子なのはもうご存知ですね。簡単に言えば、僕にも彼女を取り戻すお手伝いをさせていただきたいと思いまして」
「……何が目的だ?」
 少年は足を止めて振り返った。逆光の中でも爛々と輝く蛇の眼は、三日月の向こうから喉と胴体を拡張させ獲物を一飲みにしてしまった恍惚を確かめるかのようにレベリアたちを見ている。
 彼の高揚に侵されたのか、トランクの中の啜り泣きは哄笑へと変わっていった。
 顔を引きつらせるランドルフの視界の隅で、か細い呻き声を上げてフーゴが耳を塞いでいるのが見えた。空気を震わせる声を発する何かが中で動く。
「守り人が贄という血と肉を捧げてまで封じているのは魔女なのではないか……僕はそう考えています。僕は魔女に会いたい。いいえ、会わなければならない。魔女が生きていたという伝承を確かめるために!」
 聴衆の反応を確かめる弁論家のように、イドゥリは冒険者たちに向き直る。トランクの聲は次第に弱まっていった。
「……如何です? 人数は多い方が、助けになるとは思いますが」
 しばしの沈黙ののち、レベリアは口を開く。
「いいだろう」
「エーベルハルト卿!」
 驚愕に高くなったセティの声を無視したレベリアはイドゥリに向かい合う。一般人であれば恐れて顔を隠してしまうような眼光にも臆することなく、少年は目の前の男を見上げた。
「こいつの言う通り、人手は多い方がいい」
 にんまりと横に裂けた赤い口がくわりと開き、細い舌が覗いた。
「では道すがらお話ししましょうか。何故、僕が魔女を求めるのか」