終章


 開け放たれ、蒼く切り取られた窓の外では鳥が鳴いている。
 街では人々の笑い声や明るい話し声が聞こえ、賑やかな音楽が風に乗って窓から入り込み、微かに聞こえてきた。帝国軍は突如襲ってきた妖魔の軍団との戦いに勝利し、彼らを壊滅せしめたのだ。
 元凶となる魔女が討ち果たされ、妖魔たちは次々と戦意を喪失していったという。これから先、妖魔たちは大人しくなるだろうと守り人の当主は人々に告げ、この地は平和を取り戻した。
 アルジェベド家に宛がわれた客室で、ベッド端に腰かける娘は眠る横顔を見てそっとため息をつく。
 あの後、魔女が崩れ落ちて砂になるまでずっとレベリアは魔術を展開させたまま、彼女を放そうとはしなかった。強い魔力を急激に引き出したせいで彼の体は衰弱し、今までずっと寝込んでいる。
 彼だけでなく、無茶をした他の仲間たちも――生命力がヒトより数倍強いと自負する竜のカタジナは一日眠っただけで動き回り、他に看病を手伝ってくれた使用人たちを大層驚かせた――同じような状態だったが、仲間たちが目を覚まして動けるようになっても、彼だけは眠ったままだった。
「……無茶を、しますね」
「当たり前だろう」
 天井を見上げたままゆっくりと吊り気味の瞳が開かれて、娘は驚くわけでもなく静かに見つめる。
 二藍の双眸は、日差しを受けて煌く娘の姿をしっかりと焼き付けた。何一つ損なわれることのない彼女の姿が、その存在が、悍ましい何かに侵されていないことに安堵の溜息を洩らした。

 ――ひとつだけ、言い忘れたことがあってな。
 地下牢でのフルヒトの言葉が蘇る。全てを知りながら何もできなかった領主は、乾ききった音を声に変えてレベリアに囁いた。
「渡されたスクロールを読んだお主ならわかっておろう、アレの構成術式は破壊と再生。かつて西の家ルルベドからもたらされた錬金術。対象を内部から破壊しつつ再生させる、大いなる業の第一工程を果たすためのモノよ」
 怪訝な顔をするレベリアに骨は囁き続ける。
「故に、故にだ。リンドの娘が取り込まれた時は迷わずそれを使え」
「……どういうことだ」
「魔女そのものを内部から破壊し、取り込まれた娘のみを再生させるのだ。大いなる業だ、禁術の指定も免れぬ。だが変容してしまった以上、それ以外に贄を救う方法はない」
 ――だが心せよ、生半可な覚悟では取り戻すこと能わぬ。ヒトの一念だけでヒトを再生させるのだ。

「魔術とは本来、心持つヒトの持ち物。強い想いこそが引き戻すための鎖となり楔となる、か……本当だったな……」
「レベリアさん?」
 小さく笑い声をあげるレベリアを、不思議そうに首を傾げて覗き込んでくる蒼い空の色が、日の光に晒されて眩しく輝く。手を離し失いかけた姿は何一つ変わることのないまま、そこに在った。
「俺に言う事があるだろう、リーゼ」
「勝手にいなくなって、ごめんなさい。追いかけてきてくれて……ありがとう、ございます」
「……他には?」
 重たい片手を持ち上げて桃の髪を滑り、緩やかな曲線を描く頬を撫でる。細い両の手が掌を覆うように添えられて、強く握りしめる。もう、二度と。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
 満足げに眼を閉じたレベリアの隣で、リーゼルは声もなく頬を濡らした。



「ヒデー目にあった」
「でも、生きてる」
「まずはそれに感謝を」
 カチリ、と三つのグラスが合わさる。ヴォルフラムによって用意されたささやかな宴の席、足の細いグラスに注がれた葡萄酒を飲み干してランドルフが笑った。
「さーて、世話の掛かる二人は今頃どうしてるかねえ」
「恋愛劇よろしく抱き合ってんじゃないの」
「あの二人が? ないだろ」
「珍しく気が合う事よ」
「うわっ、嬉しくねェ!」
 そうは言うもののランドルフの顔は明るく、他の二人も肩の荷が下りたように笑っている。
 丁度出された料理にカタジナが飛びつき、他二人も宿ではお目に掛かれない料理たちへと興味を移していく。騒がしくなる仲間達から一人外れ、霧の晴れた荒野から見通せる古城の影を、セティはバルコニーから見据えていた。
 かつて己が逃げ出した場所へと思いを馳せる青年の後ろに影が一つ。
「セティ」
「……テオか」
 振り返れば濡れ羽色の幼馴染が昔のように微笑んでいた。
「変わらないな」
 かつて共に遊びまわった記憶、まだ守り人と辺境伯がお互いに信愛し合っていたころの幼友達は、記憶に残っている青年の姿のままだ。流れる時が随分違うなどと、昔は思いもしなかったのに。
 首に巻いた包帯はまだ取れておらず、視線に気づいたテオは気を取り直すように持ってきたグラスを掲げた。受け取りながらセティは古城から目を離す。
「仲間を無事助けられた、協力を感謝する」
「礼を言うのはこっちだ。お前がリーゼルと合流してるとは思わなかったけどね」
「偶然だよ。神に感謝しなければな」
 祈る所作をしてみせれば、苦笑いが返ってくる。
「ご当主と奥方の様子は」
「多少疲労してたけど、問題はない。奥方は朝から晩まで旦那に付きっきりさ、邪魔しないようにするのが大変だったんだぜ」
「気苦労が多いな」
「全くだ」
 青年たちは手元の酒を飲み下す。細かい気泡を浮かばせる透明な液体は小さく波の音にも似た音を立てて揺れた。吹いてきた風は二人の髪をかき混ぜて去っていき、部屋の中では冒険者たちが見慣れぬ料理に手を出してはあれこれと騒いでいる。いつものように言い争う二人の口に、ハンクは笑いながらも大量の香辛料を突っ込んだ。その様子を眺めながら、テオが口を開く。
「……オレは今でもリンドを忘れられない」
 投げられた言葉をセティは目を閉じて受け止める。
 かつて彼と共にあった気高い女主人、情熱のままにヒトを愛することのできたヒトの姿を、瞼の裏に思い起こす。
「でも、ヴォルフが笑うようになった。……今はそれでいいと、思うことにした」
「お優しいことだ、兄上」
「義弟には優しくしたいんだ、オレはな」
「その優しさが妹御にも伝わることを祈っている」
「嫌いだが、努力はしてみる。……そっちこそ、あの子をよろしく頼む」
 ちょうど扉が開いて入ってきた二人組を見て、セティは愉快げに声を上げて笑った。
「子煩悩な父親を二人も持つとは大変だな。そもそも、言う相手が違うぞ」
 彼が指さす先には、付き添ってやってくるレベリアとリーゼルの姿があった。

 ◇

「――以上が、彼の家で起こった真相の全てです」
 ささやかな宴の席から遠く離れて聳え立つ古城、厳めしい顔つきの兵士たちが翼竜を駆り、模擬戦を繰り広げる中庭を一望できる大広間で、イドゥリは今回の事件の概要を報告し終えた。
 豪奢なシャンデリアが垂れ下がり、磨き上げられた大理石で埋め尽くされた床。壁には精巧に彫られた石造りの花々と彫像たちが帝国の城もかくやと言わんばかりに艶やかな石肌を光に晒している。奥まった中央に誂えられた玉座に腰かけた男は、薄手の手袋に覆われた手を打って笑った。
「へぇ! 南の魔女は死んだのか」
「ええ、ご当主。貴方のご依頼通りに」
「ありがとう、イドゥリ。これでようやく肩の荷が下せるよ、神代の遺物共がボクの手を煩わせることもなくなった。帝国の古狸どもへの膨れ上がった借りを返す算段を整えないとね」
 後ろに撫でつけられ固められた薄茶の髪、額に広がる特徴的な刻印、白と黒が反転した両目と皺が浮かんだ口元を歪ませ笑う男はセオドール・ライルズ・ヴァルム。彼の辺境伯その人であり、南の地一帯の支配者。
 かつて実子たちに己の後継者としての座を賭けた殺し合いをさせた男。
「しかし、アルジェベドにも困ったものだよ。こぞって頑固で秘密主義者ときた。昔の誼で少しぐらい頼ってくれてもいいのにねえ」
「かつて守護都市の統治権を巡って争った際の遺恨は根深いのですよ? 未だにご当主の心証は最悪ですからねぇ」
「おやまあ、まだ根に持っているのかい。ただ英雄殿の後ろをちょっと小突いただけじゃあないか」
「獲物の切っ先を英雄殿の胸から生やすのを、小突くと仰いますか」
「ちょっとしたジョークだよ、君も好きだろ?」
 笑い合う二人の声は鋭い針が隠されているかのように石造りの広間で反響する。頬杖をついた身を起こした当主は、傍に仕える人影を手招いてグラスを運ばせた。
「けれど、今は祝おうかイドゥリ。この世界がまた一つ、ヒトの手に取り戻せたということにして」
 二人は笑ってグラスを合わせ、赤い雫を飲み込んだ。