Ⅴ 黒い水底


「畜生! キリがない!」
「ハンク、避けろッ!」
 今や岩窟内は甲高い叫び声を上げながら飛び回る妖魔たちの鳴き声と、冒険者たちの放つ魔術と怒号に満ちていた。召喚銃で向かってくる蟲を撃ち殺したハンクは咄嗟に体勢を低くし、ランドルフの槍を突き通された蟲は悲鳴を上げて絶命した。ドロドロと溶けだし地面の染みになる光景を一体何度見ればよいのか、ハンクはうんざりしながら親友の頭の横へと銃を突き出し、立て続けに二度撃ち抜く。
 二匹の蟲が転がり泡立って溶ける光景を見ている暇はなく、次の蟲が襲い掛かる。
「―――ッ!」
 四つに裂かれた口からは濃く白い毒の吐息が吐き出され、ソレを打ち消すように対面からは赫い炎が吐き出された。勢いに勝った炎は魔女を包み込むが、巨躯は体を震わせてまとわりついた炎を振りほどく。
 災厄の赫き竜は、ヒトの姿を完全に脱ぎ捨てて岩窟内を飛び回っていた。赫い軌跡が続く後を多数の蟲が追いすがる、竜の背に跨って襲い掛かる蟲共を叩き切るセティは、長剣を握り締め皮肉げに歪めた口を開く。先ほど食い破られた腕からは鮮血が滴っていた。
「竜の炎すら効かないとは……なるほど、テオの言ってたことは本当らしい!」
「《関心シテイル場合デハナイ。アノ子ガ既ニ取リ込マレタノダ》」
「わかっている。リーゼルの魂と器が完全に取り込まれ変容してしまう前にカタをつける……」
「《ドウヤッテ?》」
「高火力を一点集中させて、奴にドでかい風穴をぶち開けてやる」
 またもや追いついてきた蟲共を切り伏せ、眼下の二人へと聞こえるようにセティは下知を飛ばす。
「聞こえたな、ランドルフ! ハンク! ヤツの胎に穴を開けるぞ!」
 空中から張り上げられた声にランドルフは舌打ちし、ハンクは嘆息する。
「くっそ、我らがリーダーは簡単に言ってくれるぜ……」
「あの白くてぶよぶよしたやつ、硬すぎてやる気削がれるんだけどなあ」
 獲物を抱えなおす彼らの目の前に、白い蟲たちがまたしても集まり始める。母たる魔女を守ろうと、彼らは小さな羽を羽ばたかせながら二人の前に立ちふさがった。
「親孝行すぎて泣かせらァ」
 嘆くランドルフの槍が煌き、またしても地面に白い液体がぶちまけられる。
「立て!」
 突き飛ばされたままのレベリアに駆けよるランドルフが、娘の落ちていった場所を呆然と見つめる男の腕を掴んで立ち上がらせる。だが、失意の底にいる男の身体に力は入らず、眼には光が宿らない。破裂音が響いて、男の身体が横へと大きく傾いだ。
「立てよレベリア! アンタの女だろ!」
 胸倉を掴み上げて揺さぶれば、張り飛ばされた頬の痛みにようやく男は我を取り戻す。大きく息を吸って、男は目の前で歯を食いしばる騎士の震える手を外した。
「すまん……手間をかけた」
「全くだぜ! ボケるにはまだ早ェだろ!」
 冒険者たちが魔女への攻撃を開始する中、急激に騒がしくなった空気に怯えながらも、ネメジスが必死で侍女に呼びかけていた。
「ぱ、パンドラ……何が、何が起こっているのです?」
 ヴォルフラムに縋り立ち上がった彼女に背を向け、忠実なる侍女は高らかに笑い声を上げている。造り出されてからずっと望んできた悲願が漸く叶った人造生命は、血に濡れた牙をそのままに振り返った。
 彼女の鋭い爪に親友の纏っていた黒衣の切れ端を認めたヴォルフラムは呻き声を上げる。
「ご安心ください、奥方様。貴方も、貴方が憎んだ娘も、貴方が愛した男も、皆一つになれます。貴方の孤独も癒されるはずだわ」
「どういう、ことですか」
「あらァ、本当に知らなかった? かわいそうなお嬢さん! 誰よりも真相近くにいながら、何も知らされることなく育った娘。ある意味、アンタが一番幸せだったのよ?」
 ネメジスの眼には今や歪み切った魔力の流れが見える。いつも清廉に流れ続けていた侍女の魔力は千々に乱れて広がり、光ない世界で紅く光る魔力の流れはさながら自ら獲物を求めて彷徨う獣のように飢えていた。
 果たして目の前で笑い続ける女は本当に忠実なる侍女であり理解者でもあったパンドラなのだろうか、と疑問を抱き始めるネメジスを嘲るように、造られた吸血鬼は声を震わせた。
「アンタの両親は、この儀式の本当の意味を知っていた。贄を捧げて神と呼ぶべき魔女を復活させるのは、ベラドンナ家だけが受け継いできた最大の秘密だったから。だけど両目が見えないアンタを哀れんだ二人は、儀式について何も教えなかった! なんでかわかる、お嬢さん?」
 先程までの狂気に満ちた笑みはどこかへと消え、まるで幼子に言い聞かせるような声音で、パンドラは箱の中の希望を、女の目の前に突きつける。
「いつかアンタがこんな薄暗い場所を忘れて、他の場所で幸せになれるようによ」
 託されていた希望に耐え切れず、黒衣の婦人は体中の息をすべて吐き出したかのようにその場へと崩れ落ちそうになる。女の肩を掴んで支えながら、ヴォルフラムは目を伏せた。
「嘘……父上も母上も……」
「アンタの父親がアタシに血を吸われて、ヒトとして死ぬときになんて言ったか教えてあげようか? 「あの子だけは幸せにしてやってくれ」だってさ! 自分が殺されかけてるときにそんな言葉が出るなんて感動的な話よね。そんな努力も、隣の男のせいで台無しになったわけだけど」
 目を眇めてヴォルフラムを見やるパンドラは、鋭い牙を口の端から零した。返す言葉を持たない男は、ひたすらに震えるネメジスを支えて口を開く。
 いつも慈しむように触れる手が肩に食い込んで、彼が自分と同じく震えていることに気づいた黒い婦人はそっと息を呑んだ。
「赦してくださいとは言えません、ネーヴェ。私はすべて知っていた、この儀式が何であるのかも。それでいて、貴方に何も教えようとはしなかった……」
「ヴォルフ様……」
「それでもこれだけは知っておいてください。私が贄になろうとしたのは、貴方といずれ生まれてくる子供のためだった。贄を喰らう時にだけ魔女は現れます、裏を返せばその時にしか、魔女を殺す機会はない。……私の血を受け継げば、確実に贄として選ばれるその子を失う悲しみを、貴方には知ってほしくはなかったのです」
 姉の死に打ちひしがれるヴォルフラムが、仲間をベラドンナに殺され同じく遺されてしまったテオと魔女を殺そうと決意したのは、捕らえられてしまったリーゼルを逃がしてから数年後、ネメジスを娶ったあとだった。
 主の仇討のために魔女を殺そうとするテオに感じるものがなかったとは言えないが、それ以上にヴォルフラムは家族となった女の、昔の自分によく似ていた女の幸せを心から願っていた。それこそ、己の身を捧げるほどに。
閉じられた黒い睫毛の淵から、ほたりと涙が足元へ落ちる。
「夫婦そろって愚かしいこと! 安心して、すぐに一つにさせてあげる!」
 パンドラの影はかぎ爪を持つ巨大な一対の手となり、二人の姿を切り裂いた。しかし、大きく裂かれた両者の姿はそのまま霧散し、パンドラは大きく舌打ちをして辺りを見渡す。金属の擦れ合う音が岩窟内に雪崩込み、入り口に立つ影がひとつ。
「幻術も見破れないか。らしくないな、パンドラ!」
 響いた声に振り向けば、自動人形たちを引き連れたテオが噛まれた傷を抑えて立っていた。血に染まる黒衣はあちこちが眷属たちの爪によって裂かれているが、すでに彼の手によって消滅させられ、一匹たりとも残ってはいない。背後ではヴォルフラムとネメジスを庇うように、真鍮の兵士たちが各々の武器を構えている。
「テオ……まだ生きてたの? ……とっくにアタシの眷属になったと思ってたのに」
「望まずともオレは半吸血鬼だ。血を吸われても吸血鬼にはならない」
 自動人形たちは半数ほど減らされ、残る個体の殆どが片手や片足を失っていたが、残された手には吸血鬼の天敵である銀で塗られた槍や剣が握られている。さらにテオが術式を呟けば、彼の上空に穴が開き、真鍮で出来た狼と翼竜が飛び出した。
 真鍮の狼と翼竜、二匹は揃い立って敵へと牙をむける。
「これは姉上の……」
 呆然と呟かれた親友の言葉を聞き流し、己の内に逆巻く魔力で深緑を輝かせた男は、かつて妹の命を奪い、愛した主の命すら奪った吸血鬼を睨みつける。
「ここで死ね、パンドラ」
「とんだ親不孝者ね、テオ」
 巨大な影の手と真鍮の自動人形たちがぶつかり合い、赤い眼の吸血鬼と深緑の眼をした半吸血鬼が、広がる魔力の渦の中で殺し合いを繰り広げる。
 彼らから数歩離れた先、細い目をうっすらと開いたイドゥリは飛び掛かってきた白い蟲共の内側から樹花を咲かせ、死骸を踏みつぶしながらため息とともに呟いた。
「なるほど、これが南の魔女。興覚めだな、もっと醜く悍ましいものかと思ったが……単なる化け物じゃないか。ヒトはこれをこそ魔女と呼ぶのか?」
「主が望んでいた魔女の姿はここにはない、樹精霊」
 いつの間にか背後に浮かび上がった喋る骨に目を眇める。
「フルヒトの亡霊」
「アレはかつて魔女だったモノ、魔女としての力を失ったモノ。……主が望む魔女はここには居ない」
「破壊、再生はしても、結合までは至りませんか。完成までは程遠い。お話になりません、僕が見たかったのは完成された魔女。腐敗し、浄化し、成熟させ、増殖させた完全なる賢者の石」
 失笑と共にその幻影を叩き潰したイドゥリは、持っていた杖の先で地面を叩きつける。トランクの中はすすり泣き続けていた。
「……興味が失せました。ではもう一つのお仕事を終わらせますか」
 杖の先から零れる魔力によって開かれるのは契約の扉、呼び出されるのは四大精霊。ヒトの殻を被った樹精霊は同胞たちへと恭しく頭を下げた。
「我が盟主の約定に従い、魔女を殺します。諸兄ら、手伝い願えますね!」
 声に応えたサラマンダーが煌く炎を吐き、ウンディーネの身体から流れる水が蟲共を焦がし、溶かす。ノームの盛り上がる土とシルフから吹き荒れる風が押しつぶし、切り裂いていく。
 生み出した子らを殺され、連撃を叩き込まれる魔女はか細く泣き叫んだ。
「効いてんのか、コレ!」
「手を動かせ!」
 空間に現出させた黒い虚無空間へと続く穴へ蟲たちを追い込み、吸い込ませる。錫杖の先から魔力の凝った紫紺の炎を広げ蟲共を焼き払い追い立てるレベリアの隣で、黒い水から持ち上がった魔女の白い尾が後衛であったハンクを捕らえた。吹き飛ばされる彼の身体は岩壁へと激突する。
「ハンク!」
 吹き飛んでいく親友に気を取られたランドルフの足を蟲共の鋭い歯が削り取っていく。突然の痛みに低く呻いて膝をつく彼へと蟲共が群がるが、突如として目の前の地面が盛り上がり壁となった。だが勢いに任せた蟲たちは次から次へと白い身体を土壁に叩きつけ、壁は度重なる衝撃に崩れていく。
「忌々しいッ、数だけは一等級ですか!」
 冒険者たちの怒号が飛び交う中、震えあがる大気が脈動して魔女の身体が変化していく。八対の眼を持つ頭部、額の一部が盛り上がり、形を変えて五本の指持つ手となる。引き抜かれるように生えてきた腕が手をつき、肉からどろりと這い出てきた白い上半身を吸血鬼の肩越しに視認したテオは、焦りから引きつった声を張り上げる。
「急げ! 取り込まれかけてる!」
 顔を上げたヒト型は、蒼く大きな丸い目に眼下の敵対者を映した。
 
 ◇

 黒い水の中であたしは揺蕩っていた、母の胎で眠る胎児のように。
 肺は全て水で満たされているというのに、苦しさを感じない。冷たくなった手足は感覚を鈍くさせていて、気づけば黒い水底であたしは誰かに抱きしめられている。
 光のない世界では自分の鼻の先すら曖昧で、抱きしめる相手が誰なのかわからない。背中から聞こえてくる声は細く高い、女は顔を伏せて酷く泣きながら、あたしを離そうとはしなかった。女はずっと泣きながらごめんなさい、と繰り返している。
「ごめんなさい……」

 ――かあさま?
 思い出した言葉が酷く懐かしい気がした。かあさま。なんて懐かしい言葉だろう! あの日、目の前で黒い湖に落ちていったかあさま。
 ヒトの眼を気にして会えるのは本当に稀だったけれど、もう顔も姿も覚えていないけれど、父なし児として生まれたあたしにつらい思いをさせまいと精一杯のことをしてくれたヒト。物語を読んでくれる優しい声と頭を撫でる柔らかな手のぬくもりを覚えている。
 かあさまが大好きだった。
 ああ、と合点がいく。ここは湖の底だから、かあさまがいるのだ。あたしを待っててくれた。自分からも腕を回してかあさまを抱きしめる。ずっとこうしたかった、貴方が居なくなってからずっと。
 でも、なんであたしはここにいるのだろうと考えてすぐに自分が落ちたことを思い出す。そう、彼を振り払ってまで、あたしは水底に落ちてきた。……落ちてきた?
 違う、これは、この人は! 咄嗟に離れようと腕を突き出す、ここは水底なんかじゃない! 

――ここは魔女の胎だ!

 気づいた途端、背に回された腕が素早く動き、ぞっとするような強い力であたしの首を締め上げる。顔を上げた女の顔はあたしによく似ていたが、その眼は光もないのに蒼く輝いていた。
「そう、ここは私の胎。ようやく会えて嬉しいわ、私の娘」
「ち、違う、貴方はっ、かあさまじゃない!」
「いいえ、いいえ。私は貴方の母であり祖母であり子供であり先祖でもあるのよ、かわいい愛しい私の娘」
 よく似た顔がこちらをじいっと見つめてくる。緩やかに弧を描いて柔い睫毛が合わされる、まるで腕の中にいる子供をあやすように、慈しむように、女は微笑みを絶やさない。
 だけど、あたしを締め上げる力はますます強くなる一方で、苦しさと痛さに絞り出すような声が漏れた。
 いつしか女の手足は水に溶けてぶよぶよとした肉に変わり、首元からあたしを咀嚼しようとしていた。苦しい呼吸の下で咄嗟に術式を唱えようとするが、ここが魔女の胎であり理の違う世界だからか、反応は感じられない。覆われた首元から焼けつくような痛みが走り、溶かされていることを教えてきた。必死で逃れようとするが、柔らかな肉に包まれかかった手足は言うことを聞かない。痛みで回らない頭を無理に回して考える。
 ここから逃れる方法が、何か……。
「怖がらなくていいわ、私の娘。全て一つになるのだから。今まで取り込んできた私の子供たちは、私に十分な魔力をくれた……先に落ちてきた子はあまり魔力を持たなかったけれど、貴方には十分満ちている。満ちている貴方をこの身に取り込めば、形のない器は貴方という形を得て、私はようやく器を持てる。そのためにパンドラが貴方を選んだの」
「な……に……」
 這い上がる肉はあたしの口すら覆った。
「パンドラは十二分に役に立ってくれたわ。彼女もまた、私の娘。ヒトの中身を弄って作った、ヒトとは理を異とする存在。彼女がケーラの血を教えてくれたのよ。貴方は今までの子供たちの中でも一番血が濃く、私に近しい存在だと」
 そうしているうちに肉はすっかりあたしの足先まで覆ってしまった。末端の感覚はもう無く、あるのは四肢に焼け付くような痛みだけ。
 浸食されていく視界と霞む意識の中で魔女の慈愛に満ちた言葉を聞く。
「私の娘。還っておいで、私の胎へ」

 ◇

「リーゼ……」
 食われていった娘の名を呼びながら、レベリアはのろのろと立ち上がる。魔女によって叩きつけられ、打ち付けられた背中がひどく痛んだ。
 よろめきながら首を巡らせれば、仲間たちが次々と魔女の身体から無限に湧き出てくる蟲たちに苦戦している。鋭い歯は肉を削り、更に魔女の吐き出す毒が彼らの体力を蝕んでいた。自身にも長い身体をくねらせ口を開いて襲い掛かってくる白い蟲共を叩き落として、胸元を探り渡されたスクロールを取り出す。黒い羊皮紙のそれは、手の中で鈍く光って存在を主張する。
 見上げる魔女の頭部には見慣れた姿が生えていて、じっと眼下を見下ろしている。表情の現れない蒼い空洞には、レベリアの姿すら映っていない。

 ――あたしをわすれて。

「ふざけるな……」
 忘れてしまえとここにきて何度も言われた。なるほど確かに忘れてしまえば楽だろう、血を流す傷口は時という薬で埋められ何も残らない。だが、簡単に過去を忘れることができるのなら、魅入られてしまった己を否定できるのなら、瞼に焼き付いてしまった姿を忘れることができるのなら、そもそもこんな生き方を――泥をすすり地面を這いつくばってでも大切なものが手放せない冒険者になど、なっていない。
「ああ、全くもってそんなことできやしない」
 封じていた赤い蝋が弾け飛ぶ。広がったスクロールに書かれた古代魔術語が光を放ち、ひとりでに浮かび上がる。術式は彼の周りに展開され、急激に引き出された魔力が風を起こし、渦を巻いて集約した。後ろで気づいた仲間たちが叫んでいたが、耳も貸さずに引き出す量をあげていく。
 開かれた魔法陣の向こう、集まる闇はゆっくりと白い巨躯へと狙いを定める。男がしようとしていることに気づいたのか、魔女は裂けた口を大きく開いて男を喰らおうとし、妖魔たちは白い波となって群がっていく。娘の面立ちをした空っぽの蒼い目が彼を映す。
「そんなことをするくらいならば、俺は――」
 男の魔力は、魔女に向けて放たれた。

 ◇

創造物は言う。
貴方の望みは私の望み。貴方の復活こそが私の望み。
ですが、一つだけお許しを願えませんか、我が主。

魔女は問う。
言ってごらんなさい、私の娘。

娘は言う。
私も貴方のように、誰かを愛してみたいのです。

 ◇

 生まれた時にはもう終わりが決まっていた。誰とて終わりは来る。その時がいつであるかを、あたしの場合は死神ではなく血を分けた兄に宣告されただけの話だ。
 母を喪い、親代わりのレジーを喪い、自分すらも喪いかけたあたしにとって死という概念は親しい友のようなものだったから、いずれ至る約束された安寧を愛しく思っていた。
 だが、告げた当人が下手な芝居を打ってまで、そうまでして必死にあたしを守ろうとした。
 贄の子に刻まれる左手の呪印。一目見ただけでそれとわかるようにつけられた赤の刻印を、焼き鏝で潰したのは守るためだった。真面目で不器用でどうしようもない、お互いに知ってはいても名乗ることは許されず、兄として最初から最後まであたしを気にかけてくれた人。やり方は乱暴だったけれど感謝している、大切な家族だ。
 安寧のための贄は与えられた役割を投げ出すことはできない。呪われし血の凝った子供が自分であることを知っている、そのせいで兄が苦しんだことを知っている。テオが哀しんだことも、ネメジスが憎んだことも知っている。約束された終わりは先延ばしにされて、閉じ込められた暗い水底から飛び出して恋を知った、全てを投げ出してもいいと思えるような感情を知った。
 だからもう充分だと、そのはずだったのに思い出してしまう姿がある。
「(レベリアさん)」
 本当はずっと一緒に居たかった。こんな血の事なんか、家の事なんか、背中に圧し掛かる多くの命なんか、かなぐり捨てて君と一緒に生きていきたかった。でも、その道を選ぶにはあまりにもあたしは弱すぎる。
 ならせめて、最初からなかったことにしていてほしい。君と生きた瞬間の全てを忘れたことにしてほしい。
 たとえ何度生まれ変わっても、きっと君を好きになる。何度生まれ変わっても、あたしだけは覚えている。だから、どうか――。

「忘れてたまるか!」
 突如開けたリーゼルの視界に飛び込んでくるのは、思い描いていたその人。
 囚われていた黒い水底の光景は後ろへと引きずられていき、己の手を掴んで離さないレベリアを驚きと共に見つめる。
「貴様の身勝手な願いなど犬にでも食わせていろ! 俺は聞く気など毛頭ない!」
 手にした錫杖に集まり打ち込まれた金色の楔は、内部から破壊された苦しみに悶える魔女を過たず貫き、その身を磔にする。魔女は咆哮を上げて仰け反り、崩壊し続ける身体は黒く腐食して地底湖の底へと転がっていった。
 しっかりと抱きすくめられた温かさで、冷えた手足に血が通っていく。見開いた目から零れる涙は、見る見るうちに大きな雫となって転がり落ちていった。
「れべりあ、さん」
「お前の我儘に付き合わされるのはもうたくさんだ」
 イドゥリの精霊術によって呼び出された四大精霊たちがそれぞれの身体を煌かせて魔女を焼き、溶かし、砕き、削る。ハンクの召喚した銃撃は崩れ落ちる身体に追い打ちをかけ、続いて黒い魔力の槍、かつてフルヒトがラアナを眠らせるためだけに造り出し、ヴォルフラムとテオが現代に蘇らせた古代魔術が次々と彼女を撃ち抜いていく。
「――――!」
 内部から破壊され身体を崩されながらも魔女はヒトの子らを睨みつける。だが、蒼い瞳は突然貫かれ、痛みによって暴れまわった。携帯する長剣とは別に持つ投射用の細剣を、柔らかな眼球と娘の姿をした何かに突き立てたセティは魔女の身体から飛び降り、落ちていく姿を赫い竜が背で受け止めた。
 崩れ落ちた一部が膨れ上がり、そこから孵った蟲たちが忌まわしきヒト共を喰らおうと顎を開き飛び掛かる。
「しゃらくせぇッ」
 片手に持つ盾を振り回して、ランドルフが蟲たちの脆く白い身体を横殴りに叩きつける。断末魔を上げながら地面に転がったそれらは溶けて消え、跡形もない。空中を飛び交う蟲共をまとめて噛み砕き、カタジナが竜の炎を吐き出した。赫い滑らかな舌は魔女の体全体を覆い、長い身体はのたうち回る。
「撃てッ!」
 テオの号令によって放たれる自動人形たちの槍が魔女をくし刺しにしていく。彼の後方、心臓に銀の細剣を突き立てられた吸血鬼は、もはや灰となって滅び跡形も残らない。
 白濁した液体となった魔女の器はとろけ崩れ、後から後から塊となって黒い湖へと剥がれ落ちていく。高く高く、青空を舞う烏のような泣き声を上げながら、魔女は唯の白い破片となって湖の底へと沈んでいく。宵闇を煮凝らせたかのような黒い水はいつの間にか透明な色を取り戻し、底に残った白い破片は色を失って割れた。

 ――古より生き続けてきた魔女は死んだのだ。

 歓声を上げる冒険者たちと魔女だった何かが力尽き湖に沈むのを見て、イドゥリは転移魔術を唱える。すぐさま彼の足元には幾何学的な模様が浮かび上がり、彼と空間の輪郭を曖昧にしていく。
 他の誰よりも先に気づいたセティが傍に落ちていた銀の槍を投射するが、地面から生え伸びる蔦によって叩き落された。
「これで僕のお仕事は終わりです。あとは他の方々に任せますよ!」
「逃がすかッ」
 横に振りぬかれたセティの長剣を少年は大きく跳躍して躱す。風の精霊の力によって空中に留まる少年を睨み上げるセティの頭上で、四大精霊を従えたイドゥリは嗤いながら手を振った。
「それではごきげんよう、セティ様! お父上にはよく伝えておきますよ。ご子息は息災であらせられるとね!」
 高らかに笑いながら消え失せていく少年の姿を、セティはただ軋むような音を立てて歯を鳴らしながら見つめることしかできなかった。