Ⅲ 贄の娘 ≪上≫


「貴様は何をしていたッ、テオ!」
 帝国領最南端、守護都市ミルス。
 権力者の象徴たる城の中の一室、双頭の狼と絡みつく竜の意匠が施された扉の向こうでは、床を埋め尽くさんばかりにうず高く積み上げられた魔導書たち。
 深い色合いのデスクに散らばるスクロールへ、分厚い雲の隙間から漏れ霧によって濁った日差しが降り注ぐ。閉じ込めた魔力の反動で魔導珠がひび割れ使い物にならない魔術杖は床に何本も転がり、その上にばらまかれている羊皮紙の束には黒いインクで古代魔術語がびっしりと書きつけられている。
 震える怒号が飛ぶ当主の私室には二人の男性、黒を基調に赤いラインの入ったローブを身に纏い、深い濡羽色の髪を後ろで結わえた長身は、頭を垂れ跪いたまま動かない。
「どうして今更になって……今になって!」
「……弁明のしようもございませぬ、よもやクラーメルが動くとは」
「クソッ……!」
 短く切り詰められた親指の爪を噛みながら、もう一人の男は部屋を歩き回る。眉間に深く刻まれた皺、褐色の肌に隈のある蒼い瞳、荒れて外側へと跳ねまわる桃色の髪はきつく編まれて垂れ下がり、彼が歩くたびに白を基調にして誂えられた衣装の背で弾む。
 床中に転がる数々の魔道具を荒々しく蹴り飛ばして、アルジェベド家当主ヴォルフラムは、後ろで跪く影テオ・ベラドンナを振り返った。
「あの子は何処へ連れていかれた?」
「ネメジスの尖塔、案内役のフィオナしか入れませぬ」
「秘密裏に連れ出すのは無理か……それ以上にベラドンナが二度目を許しはすまいな……」
 冷静さを取り戻したヴォルフラムはため息をつき、疲れた様子で絹張りの椅子へと身を投げ出した。胸元に隠されたロケットを、壊してしまうのではないかとテオが危惧するほど強く握りしめ、切れ長の目は苦痛に耐えようと歪む。
「リーゼル、何故戻った……何故……」
 心を引き絞る痛みによって吐き出されたヴォルフラムの悲嘆の声を拾える者はいない。
 ――リーゼル・アルジェベドは贄の子である。
 誰にも顧みられることのない贄としてアルジェベド家に生を受けた彼女を逃がしたのは、他でもない当主のヴォルフラムだった。
 従者のテオと共に、刻まれた贄の証拠を消してベラドンナ家の監視を掻い潜らせ、もうこの家とは関わりなく生きていけるようにと心を砕いたのは、彼女が姉の忘れ形見であり、彼にとってもまた、特別な意味を持つ少女だったからだ。
「どうなさいます。ご命令くだされば、力づくでも奪い返します」
「門番はパンドラだ。……いくらお前でも、あの婆には適うまい」
「いいえ、そちらではなく」
「ネーヴェに、実の妹にお前が手を下すというか」
 黒い男はわずかに顎を引いて答える。
「ヴォルフ様の望みであれば、私は喜んでこの手と魂を汚します」
 その言葉を吹き飛ばすかのようにため息をついたヴォルフラムは、前髪を乱雑にかきあげた。
 左手に赤く根を張るかのように刻まれた呪印が脈打つたび、疼き輝く。果てのない空を表すかのような蒼い眼は、目の前でひっそりと傅く影を見据えていたが、やがて溢れ出す感情を堪えるかのように閉じられた。

 ベラドンナ家はその昔、儀式が滞りなく行えるよう補佐するため、時の権力者によって守り人へと与えられた家だった。
 しかし、時が過ぎ去った現在となってはアルジェベド家の役目を――儀式の完遂を見張る監視役とも言える存在となっている。故に発言権は内外共に大きくなり、彼らの言葉は表向きの主人である守り人ですら一蹴することができない。
 ベラドンナ家当主の長男、側室の息子であったテオは当主付きの密偵者だったが、ヴォルフラムの置かれた境遇を一番理解する善き親友として共にあり、陰惨な家の使命を嫌って彼の手足として動き回る影となった。
 そして現在、ヴォルフラムの監視者であり同時に配偶者でもあるネメジスは、テオの腹違いの妹である。
 ネメジスに手を下す。先の発言は決意の表れであり、同時に彼が毒花の家とは決別し守り人の影として生きることを決めている言葉でもあった。
 だが、と影は心中で溜息をつく。
「(――そのことを、ヴォルフはずっと悔いている)」
 目の前で泣き出しそうな顔をする年下の親友の顔をじっと見上げる。
 己が影として生きる道を選んだのは、家族を手に掛けることすら辞さぬ裏切り者としての道を選んだのは、何も親友の為だけではない。だというのに、彼の主であり友人はずっとそのことを負い目に感じていて、そのたびにテオは否定してきた。お前のせいではないのだと、何度でも、彼が納得するまでずっと。
 色は違うが微かに残る面影に、手の届かなかった憧憬を重ねてしまったのは、他の誰でもない己なのだからと。
「……駄目だ、赦さぬ。その忠節は、僕に向けるモノじゃないんだぜ」
 空が濡れていく様をじっと見据えていた男は、やがて重たい口を開いた。
「だけど、ヴォルフ以外にいない。本当はあの娘に捧げたいがそれもできない。オレが持ちうる全てはリンドのモノだ、リンドが持っていたものだ。それをあの女が……ネメジスが、そっくり自分のモノにするなんて。オレは赦したくないし、赦すつもりもない」
「それでも、それでもだ。たった一人の家族だろ、大切にしてやれ。少なくとも僕はそう願ってる。お前は一緒に苦しんでくれた、それで十分過ぎるんだ」
「ヴォルフができないことを、オレができるわけないだろ」
 言葉に詰まるヴォルフラムを見据えて、淡々と続く言葉に感情は乗らない。
「オレは……オレの家族を奪ってしまったベラドンナが嫌いだ。リンドを殺して暗い闇の中にあの子を閉じ込めた親父も、何も知らないままにされてるネメジスも嫌いだ。知ってるだろ? レジーだって、奴らに奪われたようなもんだ。いっそのことみんな殺してやりたい」
「テオ……」
 主人が咎めるように名を呼び、影は口が過ぎたと感じたのか押し黙る。二人の間に沈黙が訪れて、時が薄く降り積もる。再び沈黙を破ったのは当主の方だ。
「……そういえば、妙な連中が付いてきたと聞いたが。どうなっている?」
「調べは付いています。交易都市を拠点にする冒険者チームとか」
「冒険者……クラーメルの手先か? 大方、依頼の達成金でも取り立てに来たのだろう、さもしいことだ」
興味を失う当主に構わず、影は淡々と報告を続けた。
「いいえ、彼らの目的は贄の奪還かと」
「なんだと?」
 ヴォルフラムは思わず椅子から身を起こして親友を見返した。その拍子に足元の魔術杖が蹴飛ばされて部屋の隅へと転がっていき、他の魔術装具とぶつかって小さな火花を飛ばした。
「贄は交易都市で冒険者をしていたようです。……おそらくは仲間達」
「追いかけてきた、というわけか」
「ええ。……中には闇の堕とし児、後継者の姿もありました」
「……は?」
 今度こそ主は椅子から立ち上がる。その目は大きく見開かれ、開いた口は塞がろうとしない。
「な、なんでエーベルハルト家の奴が冒険者なんてやってるんだ。オズヴァルド家と並んで大陸中央の名家だぞ? 零落しかけている我らとは違って栄華の真っただ中にいる貴族だぞ? そんな勝ち組がこんな辺鄙な場所にどうして」
「逐一、折に触れお耳に入れたはずですが……」
 帝国に帰属感のない守り人といえども、軍閥のほぼ全てを支配する名門オズヴァルド家の名前は耳にしたことがある。彼らが死に祝福されし闇の落とし児――つまりはエーベルハルト家と共に非道な実験を繰り返して、禁術の兵器利用を行っていたことが発覚し失脚した事件はテオの記憶に新しい。
 両家の関係性と非合法な実験の事実が発覚した当時、上層階級は荒れに荒れたのだ。それこそ風見鶏に徹していたはずの守り人も巻き込まれ、痛くもない腹を探られぬよう、風の流れに逆らわなければならないほどだった。
 その際に両家からは二人の人間が忽然と姿を消した。
 オズヴァルド家当主の弟、ジーク・フォン・オズヴァルドと、エーベルハルト家嫡男、レベリア・ローレンツ・エーベルハルトである。
 おそらくは彼らこそが告発者だったと、テオは苦々しい記憶と共に思考を巡らせる。探ろうとした道の先、烈火の如く燃え盛る赤い髪色の女に負わされた古傷は、今も時折思い出したかのように痛む。
 同じような道に属する者同士、精度の高い情報は得られなかったが、そうと考えれば彼らが冒険者などという有象無象に囲まれた集団の中に入り込むのも至極当然な結論といえた。
 古今東西あらゆる人間が集う人種のるつぼ、それが冒険者という集団だ。過去に何があったか根掘り葉掘り聞かれる必要もない。だからこそ、あの子も冒険者となったのだろう。
 がっくりと肩を落とした守り人の現当主は、細身をソファーへと沈みこませた。
「悪いが、最初から頼む……」
 その生のほとんどを薄暗い闇に囲まれた屋敷の奥で過ごし、前当主が死んでからはすぐに傀儡として当主に祭り上げられたヴォルフラムの事だ。機械の部品のような扱いを受けていた彼はこのような外部の情報とは無縁であったろうし、彼に教える必要もないとベラドンナは考えていたのだろう。これからはそうもいっていられないが、今は贄の子に関する事柄の方が先だと影は判断する。
「それはまた後程。……して、冒険者たちは如何為されます」
 思案気に額を手で覆ってひじ掛けの頭を忙しなく叩きながら、ヴォルフラムは考え込んだ。だが、すぐに影に向かって指示を出す。
「……目的が分かるまで、しばらくは監視しておけ。冒険者というのが少々気に喰わないが……本当に贄を取り戻しに来たとわかれば……利用しろ」
「かしこまりました」
 跪き頭を深々と垂れる黒い男が闇へと溶けていって一つの気配が消える。ヴォルフラムはままならぬ現実に脈打つ左腕をきつく掴んだ。
「守る物も守れず、本当に僕に当主は向いていないようです、姉上。貴方のようにはいきませんね……」
 言葉の先、窓の外で小鳥が鳴いた。
 
 ◇

 ――湖の見える祭壇に立っていた。
 黒い水を湛える湖のように見えたソレは生き物だった。見る見るうちに形を変えて、歪な蟲の形を取って上から落ちてきた白い何かを飲み込んだ。
 途端に蟲は消えて、あとには白い何かがバラバラに千切れて揺蕩っている。己はそれを見てはならないと思うのに、足はそれに向かって進んでいく。太股まで黒い水に浸かりながら歩けば、こつり、と流れてきた何かが当たった。
 ――嗚呼、■■■が■んでいる。虚ろに光を失った眼にはもう何も浮かんでは来ず、泣きそうな顔をした己が見返すばかりだ。
 流れてきたそれを持ち上げてまた歩く。バラバラになっているそれを、どうにか元の形に戻してやりたくて必死に足を動かした。千切れたそれらを拾い上げて、抱え上げて、こんなに小さかっただろうかと首を傾げる。もっと大きかった気がしていたのだ、それこそ己の全てを埋めるほどに。
 かき集めた白い何かを、黒い水から引き揚げて繋ぎ合わせた。そうして出来たのは。
「■■■」
 色を失って唯々白いばかりの動かないそれはいつもの通り柔らかく笑んでいて、その姿をこそ愛しく思った。だが、それ以上に後悔が己を満たす。何故もっと早く――
「■してやれなかった」
 夢はそこで途切れた。

 ◇

 月が浮かぶ夜空の下、砂利道を一台の馬車が走っていく。
 ときおり大きく縦に跳ねる乗り心地に眉を顰めながらも、守護都市に向かう馬車の中でイドゥリは己の仕事道具が――固い革で覆われた丈夫なトランクが倒れないように支えながら口を開いた。
「南の守り人は古い家でしてね。だからか、彼らを主役にしたおとぎ話は様々な地で語り継がれています」
「おとぎ話?」
 静まり返った車内で話しているのはレベリアとイドゥリだけだった。他の仲間たちは皆毛布を被って寝入っているか、流れていく外を眺めて黙りこくっていて、規則正しい呼吸音が人数分聞こえる。
 眠ることができないハンクや、睡眠を必要としない少年はともかく、男の瞼には一向に眠気が降ってこなかった。
 職業柄、睡眠の大切さは嫌と言うほど理解しているのだが、どうにも目が冴えてしまって眠れない。眠気が訪れるまでは外の景色でも眺めていようかと身を起こせば、同じく身を起こしていたイドゥリが彼に気づき、暇だからと夜更けの話し相手を求めた。
「彼は付き合ってくれませんでしたので」
 指さされたコートの男は黙って足元の毛布を引き上げ丸まり、外の景色へと視線を移した。
「……昔々、南の地にはラアナという美しい娘がいました」
 銀の光が疎らに散らされた夜の下、少年が語るおとぎ話は始まった。
「あまりにも美しかったために、その地の領主は彼女を一目で見初めて妻にした。ラアナは賢い娘でした。領主も、愚かではあったが善良な領主だった。二人は愛し合い、幸せな生活を送りましたが、それから暫く経って、西から桃色の髪と蒼色の眼を持つ若く美しい娘ケーラがやってきて、領主の財産を目当てに彼を誘惑してしまいます」
 馬車は宵闇を切って進む。荷台に吊るされた魔術灯は周囲を照らしているが、後方では黒々とした闇が口を開けて飲み込もうとするかのようだ。
 闇に飲み込まれまいとするかのように、月と星々は弱々しく抗い、輝いている。
「年老いた領主は愚かにも、彼女の言う通りに元妻であるラアナを追い出して、あまつさえ魔女として処刑しようとしました。命からがら逃げ出したラアナは、自分を裏切った夫を憎み、夫を奪ったケーラを憎み、さらには己を見捨てた民草を憎んだ」
 そして、かつて愛したであろう地に強力な呪いを掛けたと、少年は語った。
「伝承によれば、ラアナは毒の魔女だったそうです。だからでしょうね、呪われた土地は見るも無残に荒れ果てた。動物の姿は消え、作物は枯れ、人々は飢えて苦しみ……さらには妖魔まで現れたと。心痛と状況が祟って領主は亡くなり、このままでは危ういと思ったのでしょう。どうやってかは知りませんが、ケーラはラアナを探し出して、どうか呪いを解いてほしいと懇願しました」

 ――我が呪いから逃れることは決して出来ぬ。お前たちにできるのは唯一つ、その血と肉をもって一時の安寧を得ることだけ。
 ――故に捧げよ、お前たち自身を。

「その言葉を聞いたケーラが何を思ったのか、後世に残された僕らには想像することしかできません。ですが、アルジェベド家からは数十年ごとに必ず一人、贄が選ばれます。その事実こそ、まだ呪いが生きている証拠であり、彼の家がケーラの子孫である証拠でもあるのですよ」
 永久に続く血と贄の儀式、禁術と呼ぶべき封印術。血を途絶えさせることなく捧げ続けよと、魔女はそう罪人に告げたのだ。
「……おとぎ話だろう、ただの」
 言っておきながら否定ができないと自嘲する。あの夜に聞かされた古い話、寝物語にありがちだと笑った話の登場人物が、語ったその人だったとは――思いもできなかった。
「おや。おとぎ話には真実が隠されているものです、僕はそれを証明したいのですよ」
「ではお前は……守り人が代々封じているのが毒の魔女ラアナの呪いではなく、魔女そのものだと推察しているわけか」
「ええ。魔女とは、肉体を持つ必要のない高位の存在として伝わっています。……彼女らにとっては魔力そのものが魂と言える。故に、ヒトと意思疎通をする際には同じ器が必要だったとか。呪いとは力の塊、ラアナ自身が呪いとして名付けられてもおかしくない、そうでしょう?」
 目を輝かせて語る少年にレベリアは嘆息し、毛布を体に巻き付けて外を眺めた。月はまだ高く空に昇っていたが細く弧を描いており、その輝きは僅かでしかない。
 あたりの星々は代わりに闇を払おうとするかのように、光を放ち続けていた。

 ◇

 金属のような光沢を持つ素材で出来た城壁が冒険者を迎える。横に広く伸びて岩山の斜面へと続く壁の傍には、規則正しく並んだ軍隊の姿が見えた。
 背筋を伸ばし、しかと前を睨みつける姿は立派だが、纏う空気はどことなく暗い。
「疲弊している」
 馬車の窓から様子を見たセティが物憂げに呟いた。
 白い霧の満たす土地は外からの来訪者を決して歓迎しはしない。天を穿つかのように聳え立つ山々に囲まれ大小様々な岩が転がる荒野は、霧で濁る朝日に照らされながらも命そのものを拒むかのように毒を発し続けている。
 だが、それでもそこに生きる命がいるというのは、今のレベリアには皮肉めいて見えた。
 門を見張る兵士たちの傍を通行証を掲げながら通っていく。厳めしい顔の兵士が顎を少し引いて頷いてみせると、城門が音を立てて開いていった。
「ようこそ、守護都市ミルスへ」
 振り返って分厚い雲に覆われた空を見上げれば、翼竜に跨った騎士たちが戦場に向かって飛んでいく。悪徳の象徴として多くの伝承に残る四足竜とは違い、長い胴と四対の翼、短い腕しか持たず言語も解さない翼竜は、ヒトの善き友であり良き隣人であり続けていた。
「竜とは名ばかりの家畜よな……一緒くたにされてはかなわぬ」
 災厄の赫き竜、ヒトに交じり友として共に暮らすことを選んだ竜であるカタジナは、首輪を付けられた翼竜と従わせる騎士の様子を見ながらため息混じりに呟いた。
 馬車が駅で止まり、石畳の街路に降り立ったイドゥリはレベリアを振り仰ぐ。
「では、情報収集といきましょう。彼女がどこに連れていかれたのか……関係者に話が聞ければ一番手っ取り早いんですが。まあ、街を歩いていたら噂ぐらい転がってますよ、ここは都市と言うにはあまりにも小さすぎますからねえ」
「飯が食える場所はあるか? 腹減って死にそうだ」
 ランドルフが哀れっぽい声を上げ、少年は少し首を傾げる。
「そうですねえ……この大通りを真っすぐいって突き当りを左に曲がれば、月噛み亭という酒場があります。味はともかく、価格の手頃さは保証しますよ。太陽が西に沈みかけた頃、そこで落ち合いましょうか」
「良い知らせがあればいいがな」
「まあそこはそれ、僕の腕を信じていただくほかはありませんねえ!」
「泥船じゃん」
 呆れたように呟くハンクに向かってにっこりと笑いかけると、イドゥリは慣れた足取りで歩き去る。残された冒険者たちは石畳を踏みしめ、教えられた酒場「月噛み亭」へと向かった。



 朗らかな女将の声で迎えられる。ここの酒場は冒険者であっても気にはしないのか、護身にしては大袈裟すぎる武具を身に着けていても露骨な視線を感じることはない。
 ヒトの声が飛び交う中を進んで安っぽい素材で出来た席に着けば、すぐさま給仕が水とメモを片手に飛んでくる。
「長旅お疲れ様、旅の方。うちの食事は絶品なんでね、疲れなんて吹っ飛ぶぜ。ご注文は?」
「ポトフ鍋二つとロース肉の串焼き……塊でくれるか、切らなくていい。あと、グラタンと沢蟹のから揚げと生野菜のサラダを人数分。へえ、ワイバーンステーキなんてモンもあるのか、そいつも人数分……」
 矢継ぎ早に注文される量の多さに顔色を悪くしたレベリアを一瞥したランドルフは、慌てて付け足した。
「ああいや、旦那のは抜きだな……四人前くれるか」
「毎度あり」
 一列に積み上げた銀貨を手渡せば、給仕は手早く注文を腕に乗せたメモに書きつけた。切り取った紙片が厨房へと回され、奥から料理人の呻き声が聞こえてくる。途端に慌ただしくなる厨房を横目に、ランドルフは隣の席で暇そうにしている男性へと視線を移した。
「よう、アンタここの人?」
「ええ、そうですよ」
 濡れ羽色の黒い髪が頷いた男の背中で揺れる。組み合わされた細い指は礼儀正しく机の上に乗せられ、ときおり木目をなぞっていた。
「俺ら初めて守護都市に来たんだけどよ、なんか面白そうな場所ある?」
「そうですねえ……旅の方に勧められるような面白い場所ですか、ここら一帯は何もありませんから」
 考え込む男性の後ろでは、使い込まれてすり減った鎧を着こんだ兵士たちが口々に礼を言いながら出ていくところだった。彼らの傷跡の一部が黒ずんでいるのを見て取ったハンクは、怪訝そうに眉をしかめる。
「できれば、この街の事とかがわかりやすい場所がいいんだけどよ」
「それでしたら、広場へ行くのがよろしいでしょうね」
「広場?」
「ここから出て壁沿いに歩けば、大きな通りに出ます。そこからまっすぐ歩いていけば、露店が立ち並ぶ広場に突き当たるのですよ。広場中央には数十年前に起こったヒトと妖魔との大戦で活躍なされた英霊たちの慰霊碑と、この地の守り人であるアルジェベド家の慰霊碑があります。この街の歴史の勉強にはもってこいかと」
「なるほどねぇ……」
 頷くランドルフの目の前に給仕が大きな鍋を二つとサラダの入った器を運んできた。鍋の中にはぐつぐつと沸いた具沢山のポトフが溢れんばかりに入っていて、目を輝かせ腹を鳴らしたカタジナが身を乗り出す。
 鍋一つ抱え込みそうな勢いで飛びつく腹の減った竜に全て食べられぬうちにと、人数分の器を引き寄せたハンクが口を挟む。
「そういえばさあ、南の地は妖魔の軍勢にやられて散々だって噂を聞いたけど、大丈夫なの?」
「やはり噂になっていますか」
 悲し気に眉を下げた男の元へも料理が運ばれてきた。焦げ目の付いた大ぶりの肉は美味そうな匂いを漂わせている。
「噂って広がるの早いよなー」
 会話が聞こえたのか、料理を運んできた給仕も前掛けのポケットにメモと手を突っ込んで背を丸めた。「働け!」と厨房から亭主らしき人物の怒号が飛んだが、見向きもしない。
「日に日に増える負傷者が教会に運ばれていくのを見るぜ、狂暴化した妖魔には辺境伯の軍隊すら容易には適わないって兵士は言ってた。だけど心配はしなくていいぜ、お客さん。そのうち収まるからな」
その話題に反応するレベリアを視線で押しとどめながらランドルフは問う。
「どういうことだい?」
「あーそうか、お客さんは知らないか……ハイハイ今行きますよー」
 いよいようるさくなる後ろの声に形ばかりの返事をして、給仕は声をひそめて話す。
「ここの守り人、アルジェベド家に生まれる贄の子ってやつは、その命を神様に捧げることでこの地の平和を守ってくれる存在だ。今まで行方不明になってたんだけど、見つかったってんで、昨日お披露目があったよ。儀式もそろそろ行われるんじゃないか?」
「……」
「どうにも悪い奴らに攫われていたって話だ。贄の子もやっと自分のお役目を果たせるってわけで……まあなんにせよ、よかったよな」
 業を煮やした亭主に引きずられていった給仕を見送って、隣の席に礼を言う。耐えきれずにレベリアが口を開いた。
「勝手なことを!」
「あんまりカッカすんなよ、旦那。怖い顔がさらに怖いぜ」
 よそわれたポトフに手を付けながら、セティが静かに呟く。
「この土地の人間にとって、贄の子の犠牲は悲しむべきことではなく喜ぶべきことだ。そも、犠牲とは考えていないかもしれないな」
「犠牲でなくてなんだというんだ」
 苦々しげに呟く彼の言葉に貴族は首を振って返した。
「慣例だよ、ただの」
 慣例! レベリアは眩暈がした。あの娘の死はそんな簡単な言葉で表されるものだと? ヒトの命がひとつ費える行いを、ただの慣例行事だとこの土地の人間は本気で思っていると?
 唇をかみしめる彼の前にまた一つ料理が運ばれてくる。今度は沢蟹のから揚げが入った器が置かれた。我先にと手を伸ばされた後には欠片すら残っていない。
 人数分のポトフをよそっていて出遅れたハンクが歯噛みして隣のカタジナを肘で押す。彼女の口からは堅い殻を噛み砕く軽快な音が聞こえた。
 サラダの中の赤い球体を器用に選り分けたセティの皿には葉物しか乗っておらず、すぐさまランドルフの手によってミニトマトが添えられていく。苦々しい顔をした青年はそれにフォークを突き刺し、半透明の果汁が白い皿の上に広がった。
「殆どの住民にとって、守り人アルジェベド家はヒトではなく、都市機構の一部だ。機械の部品と言ってもいい。彼らが死ぬのは当たり前で、それにいちいち心を動かしていては身が持たないんだろうな」
「レベちゃんにとっちゃ酷かもしれないけど、命って君が思ってるほど重要視されないんだよ。定期的な事柄として消費されていく命を覚えている人よりも、忘れていく人の方がずっとずっと多い」
「ヒトの死なんてそんなもんだろ、墓標があるだけマシだ」
 運ばれてきたグラタンを食欲がない、と辞退しようとしたレベリアの皿には、味の付いていない生野菜と沢蟹のから揚げ、今しがた運ばれてきた豚ロースの削った塊が入れられている。
「食っとけ、旦那」
 口いっぱいに肉と野菜を頬張ったランドルフが、片手に握ったフォークを彼の目の前に突き出した。行儀が悪いと注意しようとして、心配そうな色が宿っているのに閉口する。
 口の中のモノを水と共に流し込んだ男は次のステーキ皿に手を付ける。
「あいつを助け出すのに、アンタが倒れちゃ元も子もないだろ。帰ってきてまで泣かせる気か? それでなくとも、昨日から何も食ってないんだぜ、俺たち」
 相槌を打ちながら既に食べ終わったセティがタバコに火を付ける。紫煙が立ち上って周囲を漂えば、カタジナは迷惑そうに抱え込んでいた鍋から顔を上げ、煙を手で払って他所へと逃がした。

 酒場で宿の所在を聞けば、この都市に宿屋は一軒しかないという。もともと人の出入りの少ない都市なので不便はないのだろう。男に教えられた道順を辿り、冒険者たちは街並みを眺めながら広場を目指して歩いていく。
 壁際の建物――殆どが翼竜のための飼育場所になっている建物たちは、ところどころ屋根が崩壊していて大工たちが忙しそうに駆けまわっていた。先の酒場で聞いたところによると、妖魔の軍勢は攻城兵器や投石器すら使うのだという。
 壁を壊すことはないが、うっかり壁を飛び越えてしまった焼ける石たちは屋根に穴をあけてしまうのだと、大きな赤ら顔でエールを飲み続けている棟梁は愚痴をこぼしていた。
 冒険者たちが思い思いに首を巡らして灰色の建物たちを見ながら壁沿いに街を歩いていると、女性の困惑した悲鳴と共に真っ白な毛並みの犬が曲がり角から飛び出してくるのが見えた。両の手で余ってしまいそうなほど小さな犬には青い首紐が繋がれている。
 白いものの混じる灰色の髪を頭の後ろで纏め上げた女性は首紐を懸命に引っ張るが、犬は知らぬ顔で好きな方向へと駆け回っていた。
「アレでは首紐の意味が無いな」
 眺めていたカタジナが呆れたように呟く。犬は短い脚を忙しなく動かし、小柄な体躯からは想像もできない力で初老の女性を引っ張っていく。足を縺れさせた彼女は耐えかねて首紐を手放してしまった。
 勢いの付いた紐は壁際に立てかけてあった木材へと絡みつき、バランスを崩した角材が音を立てて崩れた。女性が犬の危機に悲鳴を上げる。
 散らばった木材と土埃の舞う中、犬の無残な姿を想像した彼女は大慌てで駆け寄ったが、ちょうど近くにいたレベリアが素早く犬の首紐を外して避けたことがわかると、安心したのかその場に座り込んでしまった。
 目の前で大きな音がしたことに吃驚した犬は、丸まった尻尾を振って大人しくレベリアの足元にすり寄る。女性は乱れた髪を整えながら、カタジナに手を貸されて立ち上がった。
「ありがとうございます。フィオナ、勝手に動き回らないで! 貴女が居ないと困るのは奥様よ!」
 犬を叱る女性だったが、当の犬はと言うとレベリアをじっと見つめて丸まった尻尾を振るばかりだ。
 はあ、とため息をついて元通りに付けられた首紐を受け取る女性の後ろ数歩離れた先から、黒いドレスを纏った婦人が躊躇いがちに声をかけた。カラスの濡れた羽のような色と艶を持つ地面に届きそうなほど長い髪には、ところどころに白く小さな花弁を持つ花が編み込まれている。
「助けてくださってありがとうございます、お優しい方。……ええと、パンドラ。この方は誰?」
 パンドラと呼ばれた女性は黒い婦人の手を取って犬の首紐を触らせる。婦人の眼窩にはめ込まれているのが深碧の義眼であることに冒険者たちは気づいた。
「私も初めて見る方です。旅の方ですか?」
「冒険者だ。こっちは俺の仲間」
 婦人の侍女は彼らの物々しい武装を見て一瞬戸惑ったようだったが、冒険者だと説明すると相好を崩した。
 先の酒場での反応と併せ、この都市では冒険者は好意的なものとして見られているようだとハンクは詰めていた息を吐きだす。
 幾何の金銭と引き換えにどのような依頼でも受ける無法者たち――残念ながら、交易都市をはじめとする都市の殆どが冒険者という職種に対する差別と偏見に満ちていることが多い。少なくとも守護都市ミルスでは、自分たちが得体の知れないならず者として無駄に警戒されることはないだろう。
「冒険者様でしたか。私はパンドラ、そしてこの方が」
「私はネメジス=アルジェベド。守り人の一員です」
「……貴方が?」
 驚きで声を高くしたカタジナが尋ねる。見えていないはずの婦人は覗き込むように顔を動かし、深緑の義眼に己の姿が映りこむ様子に気づいて、竜は少しだけ首を傾げる。
「意外でしたか? もしかしたら皆様の目の前に、見苦しいモノを晒しているかもしれませんが……ご容赦くださいませ、生まれつきなもので」
 歪な笑みを浮かべるネメジスは、危機が去ってもなおレベリアに身を寄せて動かない犬の紐を引っ張る。だが、青い紐はまっすぐに張られるだけだ。
「助けて貰ったからといって、いつまでもそこでじゃれつくんじゃありません。レベリア様にご迷惑だわ」
「ああいや、構わないさ」
「申し訳ありません……」
 恐縮し切って頭を下げるネメジスとは裏腹に、小犬はレベリアの足元から離れようとはせず、主が呼んでいるというのに、かたくなに動こうとしない。
 屈みこんで撫でてやれば、大げさなほどに尻尾を振って見上げた。その瞳は若葉のように碧く、命の恩人の姿を映している。
「ふーん、随分気に入られたみてぇじゃねえか。尻尾振ってるとことか誰かさんに似てるな」
「なるほど、言い得て妙だな。確かに似ている」
 後方で好き勝手に囁きかわす二人を咳払いで黙らせていると、ネメジスがおずおずと口を開いた。
「……あの、皆さまは旅人のようなものなのですよね? ……今夜の宿はお決まりですか?」
「え?」
「もし、よろしければ我が家にいらっしゃってくださいませんか。旅人はあまりこの地を訪れません、よければ歓迎したいのです。この子も皆さまを大層気に入っているようですし……」
「確かに宿を探している途中だったが。いいのか?」
 言葉を濁すセティに、黒衣の婦人は童女のような笑い声を上げて首肯した。
「遠慮なさらずにいらしてください。それに、貴方がたは私の命の恩人。軽々しくは扱えませんわ」
 首を傾げる冒険者に彼女はそっと微笑みかけ、その瞬間にだけ彼女の硝子玉はまるで日の光を浴びたかのように熱烈に光った。
「この子は私の眼であり私の家族なのです。助けて下さったとなれば、私の命を救ってくださったと言っても過言ではありません」
 困惑して足を突っ張らせた犬をもみくちゃに撫でながらランドルフが笑った。
「犬助けはするもんだねェ! こいつは渡りに船だ、ありがたくお邪魔させてもらおうぜ」
「僕も賛成。セティは?」
「では、ご厚意に甘えるとしようか。……異論はあるか?」
「カタジナには無い。故に、ご婦人の好意を唯嬉しく思う」
「右に同じく、だ」
 願ってもないチャンスが向こうから転がってきて、利用しない手はないと、レベリアはそっと拳を握り締める。
「では、屋敷へご案内いたします」
 パンドラの声に応えて、白犬が彼らを先導した。
 高い壁と山に囲まれた守護都市は、拓けた交易都市で過ごし慣れた彼らからすると少しばかり手狭に感じる。
 先端が乳白色の霧に覆われ、天へと穿たれた巨大な杭を思わせる岩山を背にして白亜の屋敷が聳え立ち、両脇に役所や交易所、帝国軍の宿舎が並んでいる。
 街の中心にある円形の広場へと伸びる大通りの両脇には、食料品店や雑貨屋など人々の生活に近い店が立ち並び、壁際に近づくにつれて武器屋や防具屋、翼竜の飼育小屋や兵士の詰め所などが目立つようになる。
 街の西側を覆う山の斜面には張り付けるように建てられた民家が見え、竜の角のように屋根から生えだした煙突から炊事の煙が立ち上り、晴れることのない曇天と混ざり合っていった。
 彼らがパンドラについて歩いていると、向かい側から歩いてくる武装した集団に出くわした。どうやら彼らは辺境伯の軍隊のようで、皆揃いの紋章を身に着け、腰には翼竜を繋ぐ紐を携えている。
「あまりぞっとしない光景よ……」
 嘯いたカタジナに肩をすくめて答えるハンクは、彼らが見るからに疲弊していることと、肌の一部が皆一様に崩れかけ黒ずんでいるのを見て取った。酒場で見た兵士たちと同じ症状だ。
 包帯で隠されてはいるが、ある兵士の腕を見ると黒く染まった箇所は他の箇所と違い、まるで蟲の甲殻のように固く、薄くなっているのがわかる。
 ハンクは己とはまた違った用途によって人体に専門的な知識を持つであろう人物へと水を向けた。
「ねえレベちゃん、見えた?」
「……毒か、呪いか。腐蝕と硬化の作用が同時に起こっている、後者であれば単純だろうが……」
 他よりも詳しいセティが後を引き継ぐ。
「この地の妖魔どもは武器に毒を塗って扱う。傷口から入り込んだ毒はそこから肌を腐蝕させ、その後、同じく傷口から入り込んだ毒の霧が作用して硬化し、最終的には崩壊を起こす」
 目の前を行く女性たちに気づかれないよう、小声で囁くセティの顔色は暗い。逃げ出したとはいえ、故郷の惨状を目の当たりにして些か堪えている。
「儀式が遅れている以上、妖魔どもは日に日に凶暴さを増すだろう。流石に疲弊しているな……」
「ねえ、毒の霧ってそんな強いの? 吸ってたら、僕たちもああなるわけ?」
「吸うだけならば害はない。だが妖魔どもの毒や魔術は人体の中で霧と反応する」
 守護都市はずっと昔から、異邦からやってくる妖魔や蛮族たちの侵攻を受け続けてきた。その結果、より多くの命を効率よく奪えるようにと、呪術や毒術等が発達してきた薄暗い争いの絶えぬ土地である。毒を扱うのは妖魔だけではなく、魔術を扱うのもヒトだけではない。
「すまない! 道を開けてくれ!」
 後ろから若い男が叫びながら走ってゆき、住民たちが慌ただしく道を開けていく。同じく道の脇に避けて待っていれば、二人の兵士が担架を抱えて人々の間を走り去っていった。
 担架に乗せられている兵士の左肩は包帯で巻かれ赤い血が滲み、露出している肌は黒く硬化して崩れかけている。
 教会の聖職者たちに毒の浄化を頼みに行くのであろう担架を見送って、ハンクはランドルフと顔を見合わせる。
「ここでは妖魔と出会っても逃げたほうがよさそう」
「同感だな」

 ◇

 壁際から大通りを抜けて移動した彼らは広場へと到達した。様々な商人たちが露店を広げる中、中央に立つ黒い石碑たちは堂々とした存在感を放っている。
 地面には色とりどりの献花や供え物が数多く寄せられており、冒険者たちが見ている前でも一人の若者が手を組み祈っていた。
「あの黒い石碑たちが、英霊たちの慰霊碑です。そして」
 その影に隠れるようにひっそりと、取り残されたように立ち尽くしている灰色がかった石碑を指して、パンドラは静かに呟いた。
「この土地の安寧を守るために、守り人は数十年に一度、血の濃い一人を神へと捧げます。選ばれた一人は栄えある子として民たちにも歓ばれる。あれが彼らの慰霊碑です」
 黒く立派な戦争犠牲者たちの慰霊碑の隣、灰白色の柱かと見紛うようなアルジェベド家の慰霊碑は時間の流れから取り残されたかのように立ち尽くしていた。
 白地に黒い文字でみっしりと彫り込まれた名前全てが贄のものである、と侍女は付け加える。
 地面には何本かの花が供えられているが、殆どは萎びていて随分と時間がたっていることが感じられた。他とは離れた場所に一つだけ、まだ瑞々しく咲いている五枚の白い花弁を持つ花が供えられていて、冒険者たちの目を惹く。
 花は前を歩くネメジスの髪に編み込まれたものと同じもので、ほの甘い香りをさせている。
 立ち止まり慰霊碑に祈りを捧げる冒険者を、周りの人々は不思議そうにネメジスと見比べていた。
「古来より、この地を守るためずっと続いている儀式です。形にせずとも民たちは皆、彼らの犠牲に感謝しています」
 石碑の前で祈りを捧げるセティの横顔を眺めながら、少し愉快そうな声音で壮年の侍女は呟く。
「近々、あそこにもう一つの名前が彫り込まれます。……ですが、それで最後になるでしょう」
 どういうことかと聞く前に侍女はレベリアの傍を通り過ぎて、先を行くフィオナを宥めている。女性らしく柔らかい面差しは、今まで強請っていたおもちゃをようやく買ってもらえることがわかった子供のように、期待で溢れて輝いていた。
 他の仲間たちが彼女に続いて歩く中、レベリアは石碑を振り返って、灰白の柱へ記される黒い名前だけになってしまう娘を想った。
 自分の後ろをついて回っていた太陽のように明るい彼女の、いつもうるさいくらいにはつらつとしていた彼女の、生きていた証はたったそれだけになってしまう。必ず助けるのだからいらぬ想像だと思いはすれど、彼にはその白い壁に彫り込まれていく娘の名前がどうしても頭から離れなかった。
 贄の子たちが生きていた、その事実は与えられる安寧を享受するだけの人々からは忘れさられていくのだろう。
 儀式のために費える命は、その死にしか意味も価値もないものとして扱われてしまった生命は、果たして真実生きていたと言えるのだろうか。一度きりの火花を散らすためだけにこの世へ生み出されてしまった者の悲哀を、誰が拾い上げてくれるのか。
「(俺ならば、他でもない俺ならば。貴様の悲哀も絶望も残らず拾い上げてやれるのに)」
 それでも娘は男を置いてこの灰色の地へと還ったのだ、そう考えると男の傷口はますますもって黒く広がっていくのだったが、仲間たちの声で我に返り歩を進める。

 広場を抜けて中央路を進んだ先、白犬は城を背にして立つひときわ大きな門の前で鳴くと、短い尾を振って嬉しそうにネメジスとレベリアの間を跳ね回る。
「助けてくださったお礼は中で。禁術の守り人、アルジェベド家にようこそ」
 訪問者を睨みつけるように前足を立てた双頭の狼と、絡みつく翼竜の意匠が両脇に施された扉が重々しい音を立てて開き、彼らを迎え入れる。
 木陰から、蒼い目の小鳥がじっと見ていた。