Ⅳ 魔女と呼ばれたモノ


 小部屋の先、苔むした灰色の煉瓦が積み重なる通路は行き止まりのように見えたが、犬は鼻を鳴らすと突き当りの壁に体を沈めていく。続いて幻術で出来た壁を通り抜けたレベリアは、小部屋の壁に記された奇妙な図形を目にした。
 火と水、土と風、ひし形に配置される四大元素を現した象徴文字を囲う二重線の合間には、古代魔術語で元素が持つ性質についての記述がみっしりと連なっていた。それぞれは一本の線によって繋がれ、真ん中にはヒトの身体にたくさんの眼が咲いたような象徴が描かれている。
 更にその下にはレベリアも知らぬ古い言葉で何か呪文めいたものが記してあった。床には巨大な魔法陣が敷かれ幾何学的な模様を描いていたが、中に組み込まれた術式はあちこちが痛んでしまっていて読み解けない。隣に浮かぶ骨に説明を求めても、骨すら知らぬと無い首を振る。
「……」
 ふと目をやると犬は前足で石の壁を引っ掻いていた。どうにかしてほしいと言いたげに、振り向いて鼻を鳴らす。
 近寄ってよく見てみれば、そこだけ他の壁と色が異なった。慎重に押せば、ゆっくりと一人分の隙間が開く。犬は中へと入っていった。
「おい、待て」
 置いていかれてはたまらぬと白く滑らかな毛並みを追いかけて、狭く急な螺旋階段を上がって行った先、およそ生活に必要なものが一通り揃ったその隠し部屋は、目の前の頑丈な鉄格子さえなければ貴族の避難場所としてレベリアの眼に映っただろう。ぽつりと開けられた小さな窓と、点在する魔力灯のおかげで屋内は薄暗く照らされている。
 だが、彼の眼はある一点を凝視したまま動かない。何者をも拒む鉄格子の向こう、天蓋の付いたベッドの上で探し人が身を投げ出している。
「リーゼ……」
 ぴちち、と鳴く声に目をやれば、窓から入ってきた小鳥がベッドへと飛び降りた。真鍮で出来た自動人形、娘が最も得意とし、時には偵察の役目も担っていた機工の鳥は、囀りながら周りを跳ね回る。身じろぎをした娘がころりと寝返りを打ち、男にまだ生きていることを知らせた。
「リーゼ」
 冷えた格子に手をかけて呼びかける。
「リーゼ!」
 瞼がゆっくりと開いて蒼を覗かせる。かすむ視界を数度瞬いたリーゼルは、彼の姿を認めると跳ね起きてあたりを見渡した。レベリア以外誰もいないことがわかったのか、彼を映した大きな目がことさら大きく見開かれて、くしゃりと歪む。
「どうして……」
「迎えに来た。帰ろう一緒に。皆待っている、お前が戻ってくるのを」
 鉄格子に駆けよって、伸ばした手に触れようとした手はその寸前で握り締められ、体の横で力なく垂れ下がった。
 娘の肩に止まった鳥は首を傾げ、青い宝石で出来た小さな瞳でレベリアを見ている。
「ごめんなさい、みんなと帰って。帰ってください。あたしは帰れない」
「何故だ」
「ここに来るまでに聞いたのでしょう、この地の話を。妖魔は儀式をしなければ狂暴化していく。儀式をしなければ犠牲は増え、いずれは霧が交易都市とて覆うでしょう。あたしは贄の子です、捧げられるべき呪わしい凝った血の子供です。どこに居ようと決してこの役割からは逃れられない」
 それは違うと言いかけたレベリアの目の前で、とろりとした透明な雫が零れ落ちて言葉は喉の奥へと貼りついた。
 果てのない空のように蒼い両目から、緩やかに頬を伝って流れ落ちるものがある。
 光に当たって頬を転がり落ちるそれが、今に輝石になって地面に転がるのではないかとレベリアは思ったが、地面に落ちたそれは唯の染みになって消えた。触れた鉄格子は氷のように冷えていたが、二人が何も言わず見つめ合っている間に、握り締めた手と同じ温度になっていく。
 断続的に零れる綺麗な声と共に、流れ落ちる宝石の卵を見ている。
「……最初からわかってたはず、なのになぁ」
 ぽつりと呟かれた言葉を拾い上げる前に、ゆるく頭を振ってリーゼルが顔を上げた。
「ここが還る場所なんです。あたしの行きつく最期の場所、だからお願いです。帰って……」
「……お前を殺そうとするこの場所が、お前の死を歓喜でもって迎え入れるこの場所が、お前が最期に行きつく場所だというのか」
 勢いよく叩きつけた男の拳が、派手な音を立ててうす暗い部屋に満ちた。
 犬が吃驚したのか跳ね起きて唸り、真鍮の鳥は非難するように高く声を上げて飛び回る。握った片手を叩きつけて叫ぶ男の眼が暗く光って、鉄格子から差しこまれた手は娘の肩を痛いほどに掴んだ。
「ふざけるなッ! ふざけるなよ! そんなことを俺が赦すとでも!」
 あまりの剣幕と痛みに驚いた娘に構う様子もなく、男はなおも言い募る。
「他の誰にも渡すものか! 貴様が何であろうと関係ない、貴様を殺すのは俺だ! リーゼの死は俺のモノだ!」
「違うわよ」
 蛇のように入り込んできた冷たい声が薄暗い部屋に響いて、入り口を振り返れば女の形をした黒い影が伸びて彼らを睨みつけていた。ソレがこの娘の死を望むものであることを男は瞬間的に悟って、険しい表情はさらに歪んで憎悪を剥き出しにする。
「その娘の死はこの土地に眠る神のモノ。アンタのモノじゃないわ」
「パンドラッ!」
「クラーメルのガキも言ってたでしょう、そこの娘の事なんか忘れなさいな。アンタがどんなに手を伸ばしても、どんなに望んでも、リーゼルもその死もアンタのモノにはならない。そうよね、リーゼル」
 女のヒールが冷たい床を叩く音に目の前の娘が身を翻し、掴まれた肩を振りほどく。
「……その通りです。だから、だからこの人は」
「関係ないとは言わせない」
 ぐにゃりと女の姿が歪んで黒霧となって掻き消える、殺気を感じたレベリアが咄嗟に出現させた錫杖に、突き出されたパンドラの鋭い爪は阻まれた。女は舌打ちをして後ろへと飛び退る。
「やめてくださいパンドラ!」
「オヒメサマはそこでしっかり見てな! アンタの愛しい男がアタシの眷属に成り果てる様をね」
 横に裂かれた口から零れるのは鋭い牙、縦に長く伸びた瞳孔は目の前の獲物を逃すまいと血のように赤い虹彩を割って強く輝いた。冒険者として旅を続ける途中に何度かお目にかかったことのある姿、足元から伸びる影は形を変えて巨大な手となり、パンドラを守るかのように揺らめいている。
「チッ、吸血鬼か。面倒だな」
「面倒だけで済めばイイほうよ? アタシ、強いんだから。ほら、貴方もこの通り」
 女が指を鳴らせば咽るような甘い香りが辺りを漂い、吸い込んでしまったレベリアは思わず膝をついた。回転を徐々に鈍くしていく頭を回して思い出す。
 交易都市で嗅いだあの香りだ! 
 鼻孔から入り込むその匂いは手足の自由を奪い、目を霞ませて末端から感覚を奪っていく。現に彼の眼球には無数の小さな血管が張り付いていた。
「レベリアさん!」
 娘の声に応えるかのように真鍮の小鳥がパンドラへと飛び掛かる。
 小さな身体で男を守ろうと羽ばたく鳥を、うるさそうに見ていた吸血鬼は手を伸ばして無造作に小鳥を握りつぶした。鳥の断末魔に合わさるように、リーゼルの身体へと激痛が走る。自動人形へのダメージはそのまま術者へと還元されることを、パンドラはもちろん知っていた。
 悲鳴を上げて崩れ落ちる娘を横目に、ひしゃげた金属の塊を手のひらから零す。零れ落ちたサファイアは高い音を立てて小鳥であったものの上に転がった。
 パンドラを追いかけてきた黒衣の男たちが次々と昇ってきてレベリアを取り囲み、二人の目の前に捕らわれた仲間達を投げ捨てる。息はあるが昏倒していて目を覚まさない。カタジナの頬についた一筋の傷口が、黒く硬化しているのを見たリーゼルは、鉄格子に縋りついて必死に言い募る。
「やめて……その人たちは関係ない、その人たちは本当に関係がないんです!」
 娘の懇願をせせら笑ったパンドラは、薄茶の長い髪を掴み上げて額当てを乱暴にはぎ取った。
「でもねェ、リーゼル。こっちのおにーさんは……」
 額に描かれる特徴的な刻印が姿を現し、吸血鬼はますます笑みを深くする。
「ヴァルムの後継者でしょ? アンタもよく考えたわよねェ、この土地の統治権を巡って守り人と仲の悪い辺境伯に泣きつくなんてさ! 敵の敵は味方ってワケね」
「私と違って正当な血の流れる仔です、ヴァルムとて協力を惜しみはしなかったでしょう」
 階下から黒衣に手を引かれたネメジスが姿を現し、リーゼルは明らかに狼狽えた。何も入っていない両目は閉じられているが、鉄格子の向こうで身を竦める娘を真っ直ぐ見ている。
「ち、ちがいます、違うの。セティは違う、違うんです……」
 震えながら訴える娘の声を無視し、ネメジスは冒険者たちへと向き直る。
「いずれにせよ、儀式が終わるまでは大人しくしていただきましょう。この娘は儀式に必要不可欠な贄の子。彼女を取り戻そうとする貴方たちの動きは、私たちにとって無視できません」
「ネメジス、貴様らは勘違いしている……行おうとしている儀式は封印術なんかじゃない……」
 その言葉に二人の女は動きを止める、だが被りを振ったネメジスは冷たく吐き捨てた。
「戯言です。そんな言葉に惑わされるとでも? この娘が貴族として……守り人としての義務を果たすことに変わりはありませんわ。選ばれし血の持ち主は全体の奉仕者でなくてはならない。彼女の死は生まれた時から、この地に望まれていたものなのです」
 くぐもった笑い声が上がり、捕らえられた仲間の一人が顔を上げる。
「望んでんのはアンタだろ……ネメジス」
「ランドルフ!」
 黒衣の男たちに押さえつけられながらも、ランドルフは痺れる舌を動かしてくぐもった笑い声を上げ続ける。彼の腕にはかぎ爪で引っ掻いたかのような傷があり、傷口は黒く煙を上げながら燻っていた。
「なんですって?」
「貴い血の義務とやらで誤魔化すなよ……リーゼルを殺してェのは、ただの嫉妬だ。そうだろ……」
 ベラドンナたちは黙らせようとするが、ネメジスが片手を上げたのを見て身を引いた。笑い声を上げ続ける男は頭を上げてネメジスを見ている。
「職業柄、俺はヒトの顔を覚えるのが得意なんだが……当代に関しちゃちっとばかし妙だった。いかに血を濃く残そうとする貴族だろうと、親類縁者だからってそんなに似通ってるわけじゃねえ。現に、先代と当代は姉弟でありながら全く似てない。……だからヴォルフラムとリーゼルが、叔父と姪にしちゃあ、ちょいと似すぎてるのは疑問だった」
 戒められた騎士は自分を押さえつけている男たちをぐるりと見渡した。
「リーゼルは、リンドブルムとヴォルフラムの娘だ」
 ひくりと薄い肩が跳ねた。体に回る毒の香りに蝕まれる己の意識を叱咤しながら、レベリアはランドルフの話を聞いていた。
「教えてくれたよ、アンタの兄貴が。ご当主は当代の贄であるリーゼルを逃がした咎を負って、今回の儀式で自分を差し出すつもりだったってなァ。ソレを知ったアンタは慌てて冒険者を雇い、リーゼルを連れ戻した……ヴォルフラムを当主として生かすために。どっちも泣かせる話じゃねえか。当主はアンタとの未来よりも、実の娘の命を選んでたってわけだ! アンタにとっちゃ耳の痛い話だろうがな!」
「黙れッ!」
 ネメジスの細い脚がランドルフの顎を蹴り上げる。
「ランドルフ!」
 リーゼルの悲鳴が上がった。レベリアの発動した闇魔術は影によって霧散し、首筋に冷たい爪が当たる。
「大人しくしておいた方がいいよォ、奥方様は怒ると怖いんだから」
 耳元でクスクスと笑う女をはっきりとしない視界で睨みつける。影はいつの間にか己の足元にも纏わりついていた。
 パンドラはネメジスを一瞥し、彼女がランドルフに気を取られているのを確認すると、レベリアの耳元で囁いた。
「ねえ。さっきの話、誰に聞いたの?」
「なに、が……」
「魔女の話よ。その話を知ってるヒトはもう……」
「パンドラ! 連れて行きなさい。追って処分を下します」
 ネメジスの指示に黒衣たちも動き、パンドラが爪を押し当てたままレベリアを無理に立ち上がらせた。
 鉄格子の向こうで大きく目を見開き、浅い呼吸を繰り返している娘と目が合う。
 「リーゼ」
 呟いた言葉はすぐに掠れて立ち消え、影たちは立ち去った。

 黒衣の監視者たちによって魔力を奪われた竜骨は光を喪い、蹴とばされて部屋の隅に転がっている。喧噪の去った薄暗い部屋の中、蹲った娘の小さな嘆きに黒い女は嗤った。
「泣いているの、贄の子?」
 ネメジスの白く冷たい手が鉄格子の間から伸ばされて、泣く娘の顔を持ち上げる。引きつった喉に爪を立てられて娘は息を飲んだ。
「声も魔力も、どこまでもそっくりだわ。吐き気がするほどそっくりで……気味が悪い」
「そっくり……?」
「まあ、母親の声すら覚えていないの? 親不孝者ね」
 クツクツと笑って浅く食い込ませていく爪は薄い皮膚を破り、溢れた赤い血は女の指先を濡らした。未だ涙の滲む目を乾かそうとして、娘は唇を噛み締める。
「貴方が戻ってきた時の皆の声を覚えている? 私は覚えているわ、皆とても弾んだ涙声で……喜んでいたじゃない。貴方の死を皆、歓迎している。貴方は望まれてここにいるのよ、幸せな贄の子。誰一人として誕生を祝わなかった私とは違う」
「この両目さえなければ。生まれつき腐り落ちた両目さえなければ、母も父も、兄も妹も私を蔑まれなかったかもしれない、腫れ物のように接しなかったかもしれない、家族として迎え入れてくれたかもしれない。……私をこんな風に生んだ彼らを恨んでも恨みきれない。けれど、ヴォルフ様は私を認めてくれた、愛してくれた、私に家族を与えてくれた」
 ぐい、と髪を引っ張られて棒立ちにされたリーゼルの姿が女の眼に映るはずもない。ただ無感動に見下ろす表情は、リーゼルに土から這い出てきた死人を思わせた。
「でもお前が居たから、お前が生きていたから、ヴォルフ様は儀式の贄になろうとした! 全てはお前がリンドブルムの娘だからだ! だったらなおさら、お前が死ねばいい。そうすればヴォルフラム様はあの女の面影を追わなくて済む。もう死んでしまった女の呪縛から、ようやく解き放たれるんだ。そして、私を見てくれる。私と生きてくれる」
 吐き捨てたネメジスは、地面に叩きつけるように娘を掴んでいた手を離した。投げ出されたリーゼルは何も言わず、その目を乾かしている。

 リンドブルム。その名前がヴォルフラムの口から出てくるたびに、ネメジスはいつも不安に襲われた。彼女にとってその名前の女こそが魔女だった。
 ベラドンナ当主の正妻が生んだ第一子ネメジスは、腐り落ちた両目のせいで周りからは「魔女」と恐れられ、家中からは同情の視線を一心に浴びた。年の近い子供たちは彼女を除け者にし、両親は彼女を見るたびに溜息を洩らした。屋敷の使用人たちは彼女を邪険にこそ扱わなかったが、言葉の端々からは魔女を恐れていることが瞭然だった。
 孤独の中に居たネメジスに優しく接してくれたのは、贄の子に選ばれたヴォルフラムだけだった。彼は彼女の手を取って「私も同じだ」と笑った。「私も望まれていなかった」と。
 だから儀式が失敗し、ベラドンナ家からの監視役としてアルジェベド家に嫁がされた時も、ネメジスは幸せだった。優しい彼の伴侶として共にいられるのならば、それ以上の幸福はなかった。
 
 だが、ある時彼女は気づいた。彼が見ているのは過去であり今ではない。心の比重を占めるのは、未だに愛した姉リンドブルムであり、己ではない。
 いずれヴォルフラムは自分を捨てて、あの女の後を追うのではないか。かつて愛した女を想い続けているのではないか。その都度否定してきた想像は、目の前の娘が生きていると知らされた時に事実となった。
「此度の儀式では、私が贄になろうと思います」
 その言葉を聞いた時、ネメジスは悲しさと悔しさで手が震えるのを抑えられなかった。私とお腹の子を捨ててまでこの人は、あの女の娘を守ろうとしている!
 だったら守りたいものを壊してしまえばいい。守りたい娘なんていなかったことにすればいい。都合の良いことに、娘の死を望み、娘の存在をなかったことにしたいのは何もネメジスだけではなかった。
 そして、願いはようやく叶うのだ。
 ネメジスの口元はうっすらと微笑を描き、勝ち誇ったかのように笑い声を漏らした。冷たい石床に両手をついて、娘はうつむいたまま左手に広がる火傷痕を眺めていた。

 ◇

「暇だな」
 地面に転がったセティが憮然とした声を上げる。隣でカタジナが欠伸を交えながら頷いた。
 地下牢に投獄されてから丸一日が経過していたが、一向に処分が下される気配はない。監視役のベラドンナたちは先ほど何処かへと姿を消してしまって、これ幸いと冒険者たちは各々脱出に向けて準備を始めた。とはいっても、開錠などは殆どハンクに任せきりではあるが。
 投獄されてすぐは全員にパンドラの毒の香が回っており、喋るのにも労を要したが、隠し持っていた道具たちが役に立った。全員分の傷薬と、解毒作用のある薬草を固めて造られた丸薬でランドルフの足の傷は塞がり、カタジナの頬の傷は崩れ落ちるどころか、痕すら見受けられない。
「後ろから不意をつくとは卑怯な奴らよな。騎士道精神の何たるかをわかっておらぬ」
「自分があっちの立場なら同じことするくせに、よく言うぜ」
「何か言ったか、駄狗」
「火蜥蜴モドキに騎士道精神がわかるとは思えねェってこった」
 むくれたカタジナがランドルフの頬を引っ張れば、ネメジスに蹴り飛ばされた傷が痛むのか悲鳴を上げる。
 じゃれあう二人を横目で眺めつつ、地下牢の鍵をどうにか開けようと、光ゴケの生えた石を咥えて手元を照らしピッキングに精を出していたハンクは、壁際で蹲っている男を振り返った。
「レベちゃん、大丈夫?」
 意識を取り戻してからは手も付けられないほど荒れていたが、時間によって落ち着きを取り戻した男は黙って頷き返す。一口も食事に手を付けず、かといって何かをするわけでもなくじっとしている男の姿を見つめ、ハンクは不安で眉を顰めた。
 ――もしも娘がここで命を落としてしまったら、この男は壊れてしまうだろう。
 自覚があるにせよないにせよ、この男の魂はすでに死へと魅入られている。過去が男にどのような影を落としたのかハンクは知りえないが、「死」という蠱惑的な存在から逃れようとすればするほどに、男の中でその衝動は大きくなっていくようだった。ソレをどうにかこらえているのは、やはりあの娘の存在が彼の中で大きいからなのだろう。
 光に集る蟲のように狂気へ引き寄せられる彼を、リーゼルがその存在でもってどうにか引き留めている。その娘を失って、男がまともでいられるとは思えない。
 内を巡る想像に顔を暗くするハンクの後ろで、転がっていたセティが思い出したかのように口を開く。
「そういえばランドルフ、テオは他に言ってなかったか」
「あ?」
「お前にリーゼルの出生を伝えた男だ、他に何か言ってなかったか」
「そーいや、何か……魔女を殺してほしいとか言ってたっけか」
「魔女?」
 ずるりと動いたレベリアに動揺しながらも、治りかけの傷口が痒いのか、背中に手を回したランドルフは語った。

「凝り児だァ!?」
 近親相姦で出来た子供は凝り児と呼ばれ、血を濃く残そうとする貴族の間ですら忌み嫌われる。
 驚きに声を上げるランドルフとは対照的に、事実を伝えたテオの表情は動かなかった。酒場で出会った男が守り人の関係者だと知らされた上、与えられた情報は彼を混乱させるのに十分だった。
「じゃ、リーゼルは……リンドブルムとヴォルフラムの娘だってのか。外聞の悪い話だ」
「ええ。ですからなおの事、ネメジスは彼女を贄にするつもりです」
「旦那様の名誉のためにも、生きててもらっちゃ困る存在は贄。なるほど奥方にとって今回の儀式は都合がよかったわけだ。当主が贄になるなんて言い出さなくてもな」
「今この家で贄の資格を持っているのは、ヴォルフラムとあの娘だけですからね。それ以上に、リンドブルムにそっくりな彼女の存在が許せないでしょうが」
「そんなもんかね、胎は違うと言えど、娘だろうに。……で? そんな秘密を明かして、俺たちに何をさせたいんだ」
 面倒なのはウチの二人だけで間に合ってるんだぜ、と頭を掻きながらランドルフはため息をつく。彼らを見下ろすのは額縁の中で静かに微笑む歴代当主たちのみだ。
「冒険者とは、幾何かの銀貨と引き換えに依頼を請け負うものだと聞き及んでいます。我らはこの因習を断ち切りたい。そのために、封じているもの自体をこの世から消したいのですよ」
「呪い自体を? 可能なのか?」
「この地の呪いは魔女そのものなのです。ソレは贄を喰らう時にだけ現れる……実際十年前に、我らはソレを殺す一歩手前まで行きました。ですが失敗し……リンドブルム様ご本人の命によって贖われた」
 ――我らが貴方がたに頼みたいことは一つ。毒の魔女、ラアナを殺すことです。

「皆さま、ご無事ですか?」
 薄暗く足元の見えぬ地下牢に目が眩むほどの明かりが灯った。場違いな明るい声が響いて、明々と輝く光精を引き連れたイドゥリが笑いながら鉄格子の前に現れる。手にはジャラジャラと音を立てる鍵束を持っていて、トランクの角は少しだけ赤黒く、よくよく見れば彼の衣服に数滴の血痕も見受けられた。
「イドゥリ!」
「ああ、御無事のようですね。さすがに武装は取り上げられてしまったようですが……」
「外はどうなってる、リーゼは無事なのか!」
 鉄格子に飛びついて言い募るレベリアに少し驚きながらも、イドゥリは手にした鍵の束を順々に牢の鍵穴へと当てていく。
「落ち着いてください、順にお話しますから」
 冒険者たちが投獄されてから妖魔の軍勢が大群となって都市に押し寄せてくるのが見え、守護都市に常駐する騎士たちや帝国軍は皆そちらへ向かった。守り人の屋敷では儀式を今日中に終わらせるべく、準備に追われたベラドンナたちが人目も憚らず走り回っている。
「リーゼルさんが連れていかれたのは地底湖。あの屋敷の下には、呪いの本体が眠るとされる黒い湖があります。封印の儀式はそこで行われると、先ほどベラドンナの方から情報を得ました……よっと」
 甲高い音を立てて地下牢の扉が開いた。
「助けなければ……一刻も早く!」
 駆け出そうとするレベリアの襟元を掴んで引き戻しながら、ランドルフは呆れたように首を振る。
「魔女を殺すだの殺さないだのはともかく、丸腰で行けるわけねえだろ。まずは武器を取り返さねえと」
「おや、魔女を殺すとは聞き捨てなりませんねえ。一体どういうことです?」
「さあ、どういう事だろうな。エーベルハルト卿、ちゃんと説明してくれ。一体、卿は何を聞いたんだ」
 レベリアはフルヒトから語られた真実を話して聞かせる。魔女の延命、造られた命、その役目。話を聞き終わった彼らは皆一様に深刻な顔を見合わせる。一人、感激している少年もいたが。
「なるほど、やはりおとぎ話は真実を内包している。僕の予想は当たっていた、魔女は実在したんだ……!」
「アルジェベドの贄の儀式が、魔女の延命儀式だったとはな」
「で、テオってやつからの依頼は、その魔女を殺してくれって話なわけ? どうやって魔女と戦うのさ、贄が必要なほど弱ってるって言っても、相手は古の超常者だよ。僕らの攻撃が通じるとは思えないけど」
「その心配は無用です」
 闇から黒い男が浮かび上がる。濡れ羽色の髪の向こうから覗く深緑の眼は、光精の光と胸元に抱える竜骨が持つ光に照らされて光っていた。
「あっ、依頼人じゃねえか!」
 指さしたランドルフへ頷く男が取り上げられていた武装を彼らの足元に転がし、それぞれが己の持ち物を拾い上げて確認する。
「我らとてこの十年、何もせずにいたわけではありません。魔女に現代の技術や魔術が通用することは把握済みです。また、手勢もざっとこの通りに」
 そう言ってテオが指を鳴らせば、闇がヒトの形に凝って現れた一団がある。ヒトの腰ほどしかない小さな影――大きな頭に小さな胴、細い手足を持つ自動人形は、丸く金色に光る眼を冒険者たちに向けている。
 丸い真鍮で出来た重たそうな頭部はヘルム状になっており、顔面に当たる場所は黒く影になって見えない。代わりに金色に光る丸い目がじっとこちらを見つめていた。その光にはほんの少しだけ、好奇心のようなものも混じっている。
 頭から伸びるラッパ状の胴体を細い手足で支えた彼らは、忠実にその場に立っているのだが、中にはヒトのように足踏みをしたり、伸びをしたりする者もいる。ちょこちょこと物珍しげにカタジナの足元に寄ってきた彼らの後頭部には揃いの紋様が刻み込まれており、その紋様はリーゼルが持っていた自動人形に彫り込まれていたものと、よく似た形をしていた。
「コレはあの娘の……」
「アルジェベド家は自動人形を造り出し動かす錬金術を得手とする家系です。もっとも、ヴォルフは魔術の方が使い勝手が良いと、あまり学ぼうとはしませんでしたがね。彼らはリンドブルムが遺した戦闘用の自動人形、その全てです」
「おかあさん、しっかりしてたんだねえ」
「……十年来のチャンス、しくじるわけにはいきませんので。それと、これを」
 テオは袖口から一本のスクロールを取り出す。古代魔術語で書かれたそれを手渡され、読み込んでいたレベリアは険しい顔で顔を上げる。当主の影は目を伏せ頷いた。
「コレを扱えというのか……!」
「もしもの時の保険です。贄が魔女と一体化するには短時間の猶予がありますが……一時的とはいえ力を取り戻せば外からの生半可な攻撃を受け付けないことが確認されています。完全に魔女が贄を取り込んでしまえば、もはや内部から贄もろとも魔女を破壊するしかありません」
 黒く染め上げられた羊皮紙に白のインクで記された破壊の魔術触媒は鈍い光を照り返す。
「……目的はあくまでも魔女を殺すこと。もちろん、これを扱う状況にならないよう全力を尽くしますが、覚悟はしておいてください」
 押し黙るレベリアに冒険者たちは顔を見合わせ、それぞれの獲物を担ぎなおした。
「使うことはないだろうぜ、何しろこっちには旦那がいるからな」
「そうだな、リーゼルが絡んでいるからな」
「レベちゃん強いもんね、限定的に」
「本領発揮よな」
 疑わしげに投げかけられた視線に、ランドルフは当然とばかりに胸を張ってこたえる。
「このおっさんはリーゼルのために東西南北駆け回った実績を持ってる。具体的に言えば海に潜って鮫と戦ったり、山に入ってエルフと交渉したり、砂漠で得体のしれない魔術師と戦ったりした。だからきっと大丈夫だ」
「は……?」
「全然説明になってないぞ、アルター」
 テオに抱えられた骨は、その様子を見ながらふわりと浮かび上がってレベリアにしか聞こえぬ声で言う。
「すまぬ。本当に全てをおぬしたちに託してしまうことになった。この男は破壊魔術を得手とする、かつて、我が主の遺した魔術の再現もできていよう」
「ンで、お前はどうするんだよ、イドゥリ」
 光精を待機させ、ぶつぶつと呟きながら手に持つ羊皮紙にペンを走らせている精霊術師を振り返る。照らされた横顔は「もちろんお供しますよ」と嘯いた。
「何しろ伝説にしか語られなかった存在である「魔女」をこの目で直に見れるのですから! ええ、殺してしまうのは些か残念ですが……そこはそれ、これはこれ。僕の目的は魔女が存在さえしていれば十二分に果たせますからねえ」
「えらく物分かりがいいじゃねえか」
「僕の目的は、伝承が真実であるか否かを確かめる、この一点に尽きます。魔女が存在するとわかった今、その行く末がどうなろうが知ったこっちゃありません」
「はあ……? よくわかんねえなお前の考え」
 仲間たちを横目にスクロールをしまい込んだレベリアは息を整えた。フルヒトから伝えられた情報でいくらかは落ち着いていられるが、この魔術触媒を使わないに越したことはない。
 表情をまったく変えずに立ち尽くす当主の影に向き直る。
「……この報酬は高くつくぞ」
「心得ています」
 頷くテオが先導し、彼らは暗い地下牢から抜け出した。目指すは屋敷の下の下、魔女が眠る巨大な湖。
 屋敷の北東にある今は誰も寄り付かなくなった離れが地下牢の出口だった。忙しく走り回るベラドンナたちをやり過ごし、中庭を抜けて当主の肖像画が飾られた広間へとテオは足を進める。
 古く使い込まれた暖炉は姿を消して、代わりに地下へと続く穴が綺麗に口を開けている。
 土の匂いが満ちた狭い横穴を駆ける一行は、やがて広々とした隧道に出た。磨き抜かれた石造りの道、壁も天井も丁寧に磨かれて床には切石が敷き詰められ、緩やかに螺旋を描きながら、地中深く潜ろうと長い身体をくねらせた蟲のように下へ下へと伸びている。口笛を吹いたランドルフが愛用の槍を担ぎなおして底を覗き込んだ。
「魔女ってのは陽の光を嫌うのか?」
 首を傾げたイドゥリが記憶を掘り起こそうと、こめかみに指をあてる。
「そのような記述はなかったと思いますが……ここに棲む魔女が特別なのではないでしょうか。白い霧の発生しているこの地に棲み続けているのも、陽の光を受けぬためと思えば納得がいきます」
 曖昧に頷いて前へと進むテオの表情は暗く、その後を影となった自動人形たちが続いた。定間隔に置かれた松明の炎は進む道を照らしていて、進むことに不自由はない。
 だが、たたらを踏んで座り込みそうになったハンクの腕を掴んで支えるセティは、口と鼻を抑えて呟く。
「あまり吸い込むなよ、魔女の香だ。いるぞ、醜悪な吸血鬼が」
 隧道は今やむせ返るような甘い香りに満ちていた。精霊の加護があるのか、イドゥリは平気な顔をしているが、彼以外のメンバーは皆、眉をひそめて口と鼻を抑えている。咳き込んだテオが袖から丸薬の入った袋を差し出し、レベリアたちに一粒ずつ手渡した。
「お飲みください。魔女の香に対抗するには、こちらも毒を呷るしかありません」
「……」
 彼が差し出したのは、守護都市を囲む岩山に唯一自生する植物の種を精製したものだ。吹き出す毒ガスを吸って育った強い毒性を持つ小さな灰色の種は、飲めばたちまち死に至る。
 しかし、毒と親しい彼らにとって、毒性を弱めた薬効だけを表出化し取り出すことなど造作もないことであった。説明する間も惜しく飲み込んだテオに倣って彼らもまた、丸薬を飲み込む。霞む視界が明瞭になったことを確認して、彼らは再び石造りの道を進んでいく。
 地の底、螺旋の終着点で女と黒の一団が待っていた。彼らの背後には岩肌を削って作った聖堂が聳え立ち、扉は無造作に開け放たれている。鋭く尖った牙を剥き出しにした女の科白は、滑った光を浮かべる岩肌によく反響した。
「よぉぉおこそ、冒険者! お探しの娘はこの向こうよ?」
「パンドラッ……」
 鈍色の短剣を構えた黒衣の一団を――ベラドンナの精鋭たちを従えて、ゆらりと輪郭を歪ませた女は嗤っている。頭の後ろでひっつめられていた灰髪は肩へと下ろされ広がり、漲っていく魔力に合わせて、鈍色の蛇のように持ち上がった。
「あらアタシの毒、効かなかった? すっかり元気じゃない。死にかけた輩の血よりも、生きの良い方が美味しいからいいけど……」
 紅玉のような赤を滴らせた瞳が先導する黒い男を捕らえ、我が子の悪戯を窘める様に柔らかく微笑む。
「テオったらすっかりそっち側じゃないの、そんなにネーヴェが嫌い? 兄妹で仲良くできないなんて、お母さん哀しいわァ」
「冗談も大概にしろよ、吸血鬼。オレもレジーも、お前を母と思ったことなど一つもない」
 にらみ合うパンドラとテオの間で影が動き、人形の一団と巨大な手は向かい合う。腰に下げた双剣を抜き放ち手元で回しながら、カタジナは肩越しに振り返り顎で先を示す。隣でランドルフが槍を構えた。
「邪魔な吸血鬼たちは引き受けよう。先に」
「だが……」
 躊躇うレベリアにカタジナは笑いながら言葉を重ねる。
「花嫁。わらべ歌で贄たちはそう呼ばれておったろう……グズグズしていると、本当に貰われてしまうぞ」
「ほらほら、お姫様が待ってるよ。レベちゃんは王子様なんだから、ちゃんと迎えに行ってあげないと」
「白馬の王子というには華がないがな」
「もー折角ヒトが励ましてるのに、自虐的にならないでよ」
 両手の指に嵌めた数々の魔装具を光らせたハンクが、紫の雷電と共に空間から火薬式の銃器を取り出す。十字を模した長剣を構えたセティは聖言を唱え、武器へと祝福を纏わせた。敵対者たちの気配に気づいたパンドラの赤の瞳が彼らを嘗め回すように蠢き、背後の一団に命令を下す。
「殺せ! 儀式を二度と邪魔させないように!」
「行け、レベリア!」
 セティの声に背中を押されてレベリアは地を蹴る。
 赤い目をぎらつかせ、ヒトにしては長すぎる犬歯を剥き出しにした黒の一団は彼を捕らえようとするが、触れようとした手は皆ことごとく赫い炎に焼かれて一握りの灰しか残らない。ハンクの撃ちだした銀の銃弾が心臓を貫き、黒の人影はその場で灰となって崩れ落ちていく。口の端から残り火を漂わせたカタジナが、閉ざされた竜の眼を細く開けて笑った。
「眷属を焼かれる気分はどうだ、吸血鬼」
「サイアクよ、家畜風情が!」



 駆け続けたレベリアは岩窟の内部へと足を踏み入れていた。一気に拡大した巨大な空間には、黒い水を湛えた楕円の湖が広がる。揺蕩う湖面に写りこんだ入り口は切り立った崖で、細い石橋が湖の中央へと続く。上から覗きこめばちょうど三角に見える祭壇は地底湖の中心にあり、ぐるりと囲むようにつけられた欄干は途中で途切れて贄が飛び込むための道が造られていた。
 自然にできた洞窟の中に聖堂を無理矢理ねじ込んだのか、石造りの壁だったものは洞窟の岩壁に浸食されて境目が曖昧になっている。地上に顔を出すステンドグラスの嵌め込まれた窓からは日が差し込み、祭壇の周りを明るく照らしだしている。
 その中心にリーゼルは蹲っていた。アルジェベド家の伝統衣装、逆三角に繋がる正三角と鳥を模した象徴が金糸で刺繍された、身体を覆う白い贄の礼装。様々な色の硝子を通して降り注ぐ日の光に照らされて、白は様々な色へと染まる。両膝をついた姿は断罪を待って祈りをささげる罪人のようで、俯いた彼女の表情はレベリアには見通せない。
「リーゼ!」
 蹲っていた娘が目を開いて立ち上がり、蒼が暗い影の中で淡く光る。
「ここまで、来たんですか」
「俺は言ったはずだ、リーゼ。お前を迎えに行くと」
 男が手を伸ばしても、娘は駄々をこねる子供のように首を振って拒んだ。ゆっくりと、だが着実に黒い湖へと歩を進める娘を止めようとして、男は一歩踏み出す。
「来ないで」
 両脇から伸びた黒い水が水面上で形を作る。せり出した通路の一部は途切れていて、娘からは湖の中心で絡まり合い一つになる様子がよく見えた。粘性のある湖の水は頭上の捧げモノを見上げ口を開いていく。
 娘は震える足で一つ一つ後ろへと進みながらも、男から目を離さなかった。
「帰ってください。……あたしはここで終わるんです、そうしなきゃいけない」
「まだそんなことを言うのか……!」
「あたしが死なないと他の命が無駄になる、あたしが贄にならないと大量の命が潰える。……どっちが重たいかなんて子供にだってわかります! 最初から決まってた!」
「だったら貴様は何故怖がっている!」
 男の声に娘は言葉を飲み込んだ。今や震えは全身に広がって立っているのも覚束ない、男は足を進めて娘を見据える。
「お前の命一つ、他より軽いと誰が決めた! お前が死ななければならない理由など何一つない! この儀式からしてそうだ……」
「随分とその子を気に入られているようね」
 蝮のように滑り込んできた薄氷の声は二人の言葉を閉ざした。細い糸を張り詰めたかのような静寂の中、高く鳴り響く足音二つが静謐を破る。
 薄紙に墨を流し込んだかのように色の無い女と、果てに広がった空のような眼を持つ男は、同じ眼を持ちながらも見える視野を狭めた娘と、彼女を外敵から守るように立ち尽くし二藍色を燃やした男と対峙する。
「……リーゼル」
 果てのない蒼を底の深い海の底へと落としてしまった男が名を呼べば、白く装われた娘の肩が跳ねる。落ち着きを失くした蒼瞳はやがて地面を見据えて止まった。
「アレに喰われる決心がつかない? それとも、その方の執着に絡めとられているの? どちらにせよ、お前がそこに立ってしまった以上、すべきことは変わらないわ」
「贄だろうが何だろうが知ったことか、コイツを帰してもらうぞ」
 立ち竦んでしまった娘へと駆け寄って細い腕を掴む。弱弱しい抵抗を続ける小さな手を剥がして無理に片腕で引き寄せた。震える肩に己の手を重ねれば、ゆっくりと震えが収まっていく。贄が落ちてこないことに苛立ったか、彼らが立つ地面の下で黒い水は激しく音を立て、岩窟の中の空気を隧道へと送り込み咆哮のような声を上げる。
 男の執着が滲んでいくように、白い衣装にはいくつかの染みができていった。
「なんと麗しい友情。はたまた身を食い破るほどの愛情でしょうか? ……碌な結末になりはしませんよ。先代はよく言ったものです、行き過ぎた魔術は身を亡ぼす。感情も然り、とね。貴方にはよくわかるのではないですか、エーベルハルト卿」
「黙れ、俺は貴様を殺したくて仕方がない。遺されておきながら、娘一人守り切ろうともせず逃げ出そうとした貴様に言われる筋合いはないぞ、ヴォルフラム殿」
 レベリアが吐き捨てた言葉にネメジスが甲高い声を上げる。
「なんて酷い人! その子を贄にする選択を、ヴォルフ様が苦しまなかったとでも思うの?」
「思わんさ、だから俺は苛立っている」
 男の執着は銀の錫杖へと形を変える。それを受けて当主もまた、細い片手剣を構えた。連なる輪を鳴らし闇を集める、弧を描く剣先が光を留める、地を這い望むものを全て呑み込もうとする男は、望む空を見上げながらも飛び立とうとはしない男に突きつける。
「全てを取り零すことになっても、手を離さなければよかったんだ」
「……貴方にッ、何がわかるというんだ!」
 彼の叫びと共に岩窟がもう一度吠えた。増々荒れ狂う水面は激しさを増して岩壁を叩き続け、祭壇は音を立てて揺れる。収束する魔力を放ったのはヴォルフラムが先だった。
 放たれた魔力の光は吸い込まれるようにレベリアへと向かってくる。全ての時間がゆっくりと動いていく中、思わず庇いこんだ娘の瞳に自分が写っている。
「――あたしをわすれて」
 不意を突かれて突き飛ばされ欄干に身を強かに打ち付けた男の目の前で、白い姿が落ちていく。悍ましい漆黒の塊が細く長い舌を伸ばして娘を喰らっていく。
「――――ッ!」
 叫んだ言葉は何処からか響いてきた哄笑に掻き消され、追いついてきた仲間たちが驚きの声を上げてソレを見上げる。彼らの眼には、べたついた黒い水を吸い上げるかのように、白く不安定な存在が持ち上がって段々と形を変えていくのが見えた。
 悍ましい化け物――ヒトである以上は決して理解ができない名状しがたき者、長く縦に伸びたソレは太い胴からいくつもの触手を生やし、四つに裂けた口からはドロドロとした未分化の黒い粘液が滴り落ちる。不規則に並ぶ八対の蒼い目をあちらこちらへ彷徨わせながら、化け物は眼下の冒険者たちを睨みつけた。
 青い筋が透けて見えるぬらりとした白い表皮と蜷局を巻いた身は、地底を掘り進み木の根を齧る醜悪な蟲のように見える。
「なんだ、コイツ」
「なにこれ……」
 険しい顔をして長剣を握りしめる青年の隣で騎士は盾を構えるのを忘れ、召喚士は茫然と立ちつくす。竜女は竜の眼を開いて見ている、ヒトではない竜の眼にはソレの在るべき姿が映っている。
 黒い水全てを覆いつくそうと広がる白い泥の中、金色の砂を零しながら浮かび上がってくる女の姿を。
「魔女」
 セティの呟きに反応したのか、女の顔が歪な笑みを浮かべた。
「ッうおっ」
 魔女が長い尾を叩きつける振動で洞窟内は大きく揺れる。悲鳴を上げて転びかけるネメジスの手をヴォルフラムが掴んだ。本来の姿を取り戻した歓喜に、悲哀に、魔女は高く泣き叫ぶ。
 頭上のステンドグラスが粉々に砕けて魔女と冒険者たちに降り注いでいく。
「ッなんだよ、弱ってたんじゃねェのか!」
「見て、外に出ようとしてる!」
 降り注ぐ色硝子たちから頭を庇いながらハンクが指し示す方向を見れば、魔女は柔らかな身体の末端を変形させて小さな羽を作り出し、ぽかりと空いた穴を無理に広げようと頭を突っ込み、地上へ向けて飛び出そうとしていた。舌打ちをしたヴォルフラムが術式を唱えて、まだ柔らかい羽を切り落とす。
 魔女が叫ぶ声に応えるように現れたパンドラがひときわ高く哄笑した。彼女の衣服はあちこちが焼けこげ皮膚は爛れているが、灰色の奥に埋もれた赤い眼は歓喜に輝いている。
「確かに贄の儀式は魔女の命を繋ぐためのものよ! けれど、造られた贄そのものが魔女の力の一部であったとしたら? この儀式そのものが延命ではなく、復活を目的としたものであったとしたら!」
 獣性にも似た感覚で長剣を閃かせたセティが何かを叩き切った。転がったのはヒトの頭程度の大きさの白濁した脆い肉を持つ蠕蟲。魔女の躰から産み落とされた妖魔はキチキチと音を立てて丸まる。
 羽を再生し、再び飛び立とうとする白い巨躯に向かって両腕を広げたパンドラの勝ち誇った声が響く。
「今こそ南の魔女は甦る! 我らの守護神、我らが母、麗しき魔女、この地全てを呪いし魔女――ラアナよ! 生きるもの全てを食い荒らせ!」