Ⅲ 贄の娘 ≪下≫


「ネーヴェから聞きました。この子を助けてくださったそうですね」
 受け答えをするセティの後方で、レベリアは静かに瞠目した。
 通された応接室の中、暖炉の前に置かれた赤い絹張りの椅子から立ち上がって来客を迎える姿。大きな窓から差し込む日の光に照らされた、東の果てに咲くという花と同じ色をした髪に、鳥たちの舞台である空の色をした蒼い眼。その二つの色こそがアルジェベドの証であるのだと彼らは理解する。
 隣に立つ黒い婦人と寄り添いながら口元に笑みを湛えて、未だ大人しくならない白い犬を苦労しながら抱きかかえる男の色は、冒険者たちが探している娘とそっくり同じものだった。
 少し観察してみれば、色だけでなく顔目立ちも似ていることがわかるだろう。下手をすればふとした時に見せる仕草さえも、この男はリーゼルに似ていた。
「どうかなさいましたか」
 自分の姿を見て凍り付いたかのように動きを止めている冒険者に、当主ヴォルフラムは訝しげに問いかける。
 慌ててランドルフが口を開いた。
「いやあ、その……随分若いんだな、アンタ。二十歳そこらってとこか?」
「アルター」
 仮にもこの地の支配者に向かってその口の利き方は如何なものか、と眉をしかめ窘めるレベリアとは対照的に、ヴォルフラムは穏やかな態度を崩さない。まるで悪戯を反省しない弟をみるようだ。
「いいのです、普通に喋っていただければ。しかし童顔である自覚はありますが、そんなに若く見えますかね。これでも私は今年で三十八になるのですよ」
「その顔で俺より齢いってんのかよ!」
「アルター!」
 妙なところで感心し驚くランドルフの腹に綺麗な肘鉄が決まった。カエルが潰れたような声を上げてうずくまり、物理的に沈黙した客人に気づかず、ネメジスはヴォルフラムと話をしている。
「ヴォルフ様、いいでしょう?」
「ネーヴェ、お前はいつも強引ですね……」
「いつもじゃありませんわ、今回だけ! 今回だけ特別!」
「この前もそう言っていた気がするのですが……まあいいでしょう、お前は言ったところで聞きませんからね」
 言葉尻を上げて甘えたような声を上げる、少女のようにはしゃぐ奥方とは対照的に肩を落とした当主は、視線に気づきレベリアに向き直る。真っ直ぐに見据えてくる蒼がどうしても娘を想起させてまともに受け止めきれず、レベリアは早々に目を逸らした。
 意に介した様子もなく、ヴォルフラムはにこやかに配偶者の突飛な提案を詫びる。
「すいません。ネーヴェが御無理を言いまして」
「構わない。……守り人と話せる機会があるとは思わなかったな。もっと違う……雲の上の世界の話かと思っていた」
「意外でしたか? 貴族とは名ばかりで、あまり他の方々と大差ないですよ」
「それこそ意外だな。守り人と言えばこの地の安寧を守ってきた一族だろう、それが他と同じと言うのは些か謙遜が過ぎるんじゃないか?」
 その言葉に当主は肩をすくめて皮肉げに口の端を歪めた。隣で会話を聞いていた婦人が何とも言えない表情で彼の腕に手を置く。
「ヒトは変わります。アルジェベドが尊敬を集めていたのは、もう随分と昔のことになりました。ご覧になったでしょう、中央広場の様子を。……古からずっと、行うことは変わらないというのに」
「……当主」
「ああ、お客人の前だというのに申し訳ありません。今のは忘れてください。いけませんね、歳のせいか愚痴っぽくなってしまって」
 穏やかな笑顔を取り戻し、当主は使用人たちを呼びつけて人数分の部屋を用意するように伝える。一礼して去っていく召使を見送りながら、ヴォルフラムは抱えたままの犬を撫でた。
「何のもてなしもできませんが、夕食ができるまでの間、のんびりなさってください。離れには蔵書館もあります。暇つぶしの一環にはなるでしょう」



 客人たちが屋敷の見学へと部屋を出て行ったあと、指示を終えたヴォルフラムが静かにそっと息を吐いたのを見計らい、ネメジスは声をかけた。
「お疲れかしら。でも、ありがとうございます。私の我儘をかなえてくださって」
「今に始まったことではありませんからね、いい加減慣れました」
「あら、失礼なお返事ですこと」
「それより体調の方は如何ですか。加減が悪かったりは……」
 目の見えぬネメジスの手を取って至極ゆっくりと話しかけるヴォルフラムの腕に手を這わせ、女は彼の首に腕を回して抱き着いた。
 戸惑ったように男は数度手を宙へと彷徨わせたが、やがて恐る恐る目の前の女を抱きしめ返す。
「大丈夫です。ふふ、ヴォルフ様は心配性ですのね」
「心配にもなりましょう。目の見えぬ妻に身重の体で出歩かれては……」
 ゆっくりと身体を離して、頭一つ分高い彼の顔を両手で包むその手は細く冷たい。困ったように下げられた眉と固く引き結ばれた口元から不安を感じ取ったのか、ネメジスは安心させるように微笑む。
「そんなに心配なさらずとも大丈夫ですよ。貴方が思うほど脆くは無いのですから」
「しかし用心しろと医者に言われたばかりでしょう」
「そうですけど……、ずっとお屋敷に籠り切ったままでは気が滅入ってしまいますわ。それに、彼らとも出会えたのです。今日は楽しいお話がたくさん聞けますわよ」
「お前は本当に語られる話が好きですね」
 彼らと出会えたのは本当に幸運だったと、ネメジスは胸の内に沸き起こる期待にうっそりと微笑む。
 外からの旅人はこの都市では本当に珍しい。他所の旅人たちにとって、毒霧に覆われるこの場所は長居したい場所ではないし、冒険者という人種が興味をもって訪れるような古代遺跡もここにはない。
 なればこそ、めったにお目には掛かれない彼らの話をネメジスはとても楽しみにしていた。墓掘りたちを屋敷に招いたのも、彼らの話を聞きたいがためのモノだ。
 冒険者はどれも皆一様に様々な話を知っている、目が見えずどこにも行けない彼女にとって、彼らが語る冒険譚は侍女に語ってもらうどんなおとぎ話や伝説よりも胸を躍らせるものだ。
「(気になることもありますけれど……)」
 抱き着いたままヴォルフラムにすり寄れば、大きな手が優しく頭を撫でて、ネメジスは表情を綻ばせる。
「ねえ、あの中の一人がとても面白い魔力を纏っていたのですよ、ヴォルフ様」
 聞こえた声の調子からして男性だろう、とネメジスはあたりをつける。内を巡る魔力は深く黒く、死に魅入られた深淵により近いモノだったが、寄り添うように漂う魔力残滓は己が何よりも憎んだ女と似ていた。
 混じりけのない純粋な白、蟲共が吐き出す糸を寄り合わせて作られた布のような柔らかな白い魔力。何もかもを雪ぐかのような激しさを持つ目の前の愛しいヒトと、同じ色をした魔力残滓。
 おそらくはあの娘のモノだ、ならば彼らは連れ戻しに来たのだろうか。冒険者という生き物は可能性さえあれば決して諦めはしないという。
「(用心、しないと)」
 ネメジスは血の気の失せた唇を赤い舌でなぞった。今は塔の一室に閉じ込めてあるが、一体いつ見つかって逃げ出すかわからない。
 身を翻して忠実なる侍女を呼ぶ彼女の目の前で、当主は疼く左腕を抑えた。
「パンドラ」
「はい、ここに」
 足元の影が液体のように伸び、女の足元を離れて立ち上がる。導くように差し出された腕を掴んで、ネメジスは愛するヒトを見上げた。光のない闇の中でも見える彼の姿を。
「大丈夫。何も心配することなど在りませんわ、ヴォルフ様」
 どんな犠牲を払っても憎む女の呪縛から誰よりも愛しいヒトを守ってみせると、毅然として前を向き歩き去る彼女の後姿を、ヴォルフラムは唯じっと見ていた。

 ◇

 守り人の屋敷は冒険者たちが思っていたよりもずっと広い。気を抜けば迷ってしまうかもしれないとレベリアは廊下に張られた見取り図を眺めた。
 この城の一階は公共施設として機能しているらしく、今も大部屋一つを借り切った住民が子供たちを集めて授業を行っている。
 離れも含めて冒険者たちは自由に出入りしてもよいと言われたので、何かしらの情報とリーゼルの居場所に関する手掛かりを求めて、屋敷の中を歩き回る。
結局あの後レベリアについていくと聞かず、当主の手からもがき抜け出した白い犬は嬉しそうにはしゃいでは傍を跳ね回っていた。

「随分とその子に懐かれたようですね」
 抜け出されるときに顔を蹴られ、少しだけ寂しげな空気を纏わせた当主は言った。
「狼の血が入っているからか、あまり人に懐く性質ではないのですが。せっかくです、滞在の間はその子の遊び相手にでもなってやってください」
 白く短い尾がぴょこぴょこと揺れる様子は、つい最近自分が追いかけた小さい背中を思わせる。溜息をついて、白い犬の青い首紐を右手に絡ませた。
 中庭を囲むように建てられた屋敷の廊下から外を眺めれば、様々な色の花たちが庭師の手入れの下で整然と並んでいる。中庭も庭園として一般に開放されており、授業を抜け出した子供たちの格好の遊び場になっていた。
 様々な年代の子供たちが集まってわらべ歌を歌っている姿の中に、見慣れた赤い外套を揺らすカタジナを見つけて、レベリアは少しだけ目を見開く。どうにも音が外れているが、子供達もカタジナも気にしていないのか、調子のずれたわらべ歌は風に乗って彼の耳に届いた。

 ――はなよめさまはうたうたい。うたにあわせてよめにいく。
 ――はなよめさまはききじょうず。こえにあわせてよめにいく。
 ――かわいや、かわいや、かわいやな。

 ――かわいいむすめはもろたろか。かわいいむすめはたべたろか。
 ――そのみよこせとまじょがいう。そのみくわせとまじょがいう。
 ――あわれや、あわれや、あわれやな。

 ――くろからしろへ、しろからきんへ。
 ――さいごはあかあくそまってしまい。

 歌っていた子供たちはやがて興味を他の事へと移したのか姿を消した。レベリアは一段低くなった中庭へ降りると、歩いてきた教師役に運悪く捕まり連行される子へと手を振って見送るカタジナに声をかけた。
「さっきの歌は?」
「ケーラの詩」
 歌の意味を尋ねると、竜の女は子供らから貰ったという花の輪飾りを大事そうに抱えて膝の上に置いた。
「ケーラ。かつて領主をかどわかした若い女は償いの為、呪いそのものに嫁いでいく。もっとも歌の中で呪いは魔女と称されているし、嫁いだのか喰われたのかよくわからぬが……」
「呪いに嫁ぐのか?」
「儀式のことだ、贄にするというよりかは耳触りが良い」
 竜は覚えたてのメロディーを口ずさんでみせたが、やはり外れている。歌われている内容は重いものだというのに、彼女が歌うと滑稽なものに聞こえた。
「この地では呪いを神として崇めているようだったから、贄の子はさしずめ神の花嫁と言ったところか。カタジナもヒトの子に貰ったことがあるが、これより善いものではなかった」
 花飾りを潰さず袋に入れようと苦戦しているカタジナを後にし、足元にまとわりつく犬をうっかり蹴り飛ばさないよう気を付けながら、レベリアが次に訪れた部屋は暖炉のある広間だった。
 団体を相手にするのに使われるのだろうか、大きいテーブルと十数個余りのチェア、歴代当主たちの肖像画が来訪者を出迎えている。
 頭上に輝くのは魔術で明かりの灯された巨大なシャンデリア、ヒト一人余裕で通り抜けられるほど大きな四枚の窓、古く使い込まれた暖炉の埋め込まれた壁、その一面に飾られた肖像画たちの中、男の視線はある一枚の肖像画に釘付けになる。
 大きな蒼い瞳と煙るように柔らかく量の多い睫毛、長い桃色の髪は後ろで緩やかに結ばれている。窓から差し込む日差しの中で柔らかく笑んだその女性は、白いドレスを身に纏って額縁の中からこちらを見つめていた。
 肖像画の中の女たちは皆一様に桃色の髪と蒼色の眼を持っていたが、中でもとりわけレベリアの眼を惹いたのは、その肖像画の姿が本人と見紛うほどリーゼルに似ていたからだ。
「見れば見るほど似てるだろ」
 気がつけば彼の背後にランドルフが立っていた。手には分厚い革表紙の本を持っていて、訝しげな視線に気づいたのか画集だぜ、と苦笑いをして壁際の書棚を親指で示す。
 この男が文字を読めないことを、レベリアと男の親友だけは知っている。
「……親類ってだけで、ここまで似るかね」
 独り言ちる彼が順に歴代当主たちの肖像画を指し示し、二人は揃って見上げた。見れば他の当主たちと違い、彼女たちは容貌の近似性で一線を画している。
「リーゼルの母親ですよ」
 振り返れば部屋の入口に凭れ掛かるようにしてヴォルフラムが立っていた。
 ドアを閉めて振り返るその表情は固く、娘の名前が出てきたことで警戒する二人に対して、当主は黙りこくったまま彼らと向かい合う。
 遠くで子供たちの遊ぶ声が水の中のように曖昧に聞こえる。日差しの柔らかな午後だが、部屋に流れる空気は冷たい。肌のひりつく緊張感の中で、我関せずとばかりに白犬は尻尾を振って当主の傍へと駆けていった。
「彼女はリンドブルム=アルジェベド。先代当主であり、私の姉であり……贄の子リーゼルの実の母親です」
 ヴォルフラムは視線を外し、足元によってきた犬を屈みこんで撫でた。白犬は大人しく身を任せていたが、やがて身を翻してレベリアの傍へと戻る。その様子を見て当主は長い睫毛を伏せた。
 彼の顔からは冒険者たちを歓迎したときに纏っていた好青年じみた笑顔は消えうせており、代わりに現れるのは、悲嘆に暮れることに疲れてしまった男の顔だ。
「フィオナが貴方に懐いているのを見た時に確信が持てました。フィオナは元々姉の飼い犬で、姉とその子供以外には懐かなかった。そして、彼女はヒトの魔力を嗅ぎ分ける……貴方がたはあの子を取り戻しに来たのですね」
「へっ、話が早ェ」
 吐き捨てた騎士の右手に嵌められた金の指輪に魔力が集まり、徐々にその輪郭は身の丈ほどの短い槍の形を現しかけている。
 騎士の親友であり主人でもあるハンクの十八番は、空間を繋ぎ合わせることによって行われる転移術。彼の知識と技術の結晶、転移の魔術触媒はランドルフに預けられていた。
「……私は貴方がたと争う気はありませんよ。話は姪から聞いています。冒険者として、仲間として、得難い友であるとも。だからこそ、貴方がたにはこの地から去っていただきたい」
「それは守り人の当主としてか?」
「それもありますが、姪の意思です」
 一歩踏み出したヴォルフラムの姿を陽の光が照らして、細い髪の筋が幾つも煌いた。よく似た蒼の虹彩がレベリアを映しこんでいる。
 まっすぐに見つめてくる面差しを見て、ランドルフは今まで襲われていた違和感の正体にようやく思い当たる。ちらりと一瞥した肖像画の女は――。
「姪は恐れています、この地の呪いが貴方がたすら蝕んでしまうのを。私は贄として捧げられてしまう彼女の心残りを、これ以上大きくしたくないのです」
「本人の口から聞かなければ、信じるに値しない」
「……どうか、お聞き届けくださいませんか」
「くどい。あの娘は何処だ」
 取り付く島もないレベリアの様子に目を伏せるヴォルフラムは、ため息とともに踵を返した。
「どうあっても取り戻すとおっしゃいますか。ならばもう、私から申し上げることは何もありません……居場所はその犬が知っています、貴方であれば導いてくれるでしょう」
 言葉だけを置き去りにして当主が去っていけば、いつの間にか太陽は厚い雲に隠れてしまって先ほどまで明るかった部屋の中は薄暗い。息を吐きだしたレベリアがランドルフを振り返ると、騎士はヴォルフラムの肖像画を睨みつけて神妙な顔をしていた。
「どうした」
「うんにゃ……」
 話しかけても生返事をするだけで肖像画の前から動こうとしないランドルフをそのままに、レベリアもまた、部屋を後にする。
 当主の言葉を思い出して白い犬の青い紐を手放し、しばらく様子を見てみたが、フィオナはただ彼の周りを嬉しそうに駆けまわるだけだった。

 中庭を抜けた先は小さな蔵書館に繋がっている。両開きの扉を押し開けて中に入れば、かびと埃の混じった甘いような匂いが鼻を掠める。明かり取り用の天窓から差し込む光のなかで埃がちらちら舞っていて、天井までみっしりと本に埋め尽くされた高い本棚は両脇に整然と並び、見るものを威圧するかのように聳え立っている。
 壁は厚く外の音が聞こえない室内は、レベリアに水底を想起させた。
 蔵書の種類は殆どが魔術や呪術の研究書、あるいは理論大系だ。娯楽で読むような小説などの類は、奥まった場所にぽつりと置かれた小さな棚に収められている。
 その傍に置かれた読書机の上には角の生えた竜の頭蓋骨が所在なさげに乗っていて、近づいてよく見れば、ちょうど頭蓋の内側に刻印が施されていることがわかる。良く調べてみようと手を伸ばせば、触れてもいないのに頭蓋骨は揺れてカタカタと乾いた音を立てた。
 それは聞いているうちに意味のある言葉となり、男の耳に届く。
「妙な魔力の巡りを感じるが、なるほど、我が一族とも因縁浅からぬ身であると見える」
 突如、竜骨がぼんやりとした光を纏って浮かび上がり、驚愕したレベリアは一歩後ずさった。
「……この家では骨が喋るのか?」
「おや、我が声が聴けるとは。ようやく話し相手ができそうじゃ」
「お前はなんだ」
 舌もないのに喧しく笑った骨は、怪訝な顔をしたレベリアの目線の高さまで浮かび上がる。
 見せつけるように開いた口の奥、頭蓋の裏に記された魔術刻印――刻まれたモノへと魔力を貯めておくためのもの――が光っているのを見て、これが何らかの魔法生物であることを彼は理解した。
 色のない乾いた肌を魔力で覆った骨は、賢者が知識を授けるかのように朗々と喋り続ける。
「我が名はフルヒト。旧くからこの家の行く末を睨むもの」
「フルヒト? 伝説に伝えられる領主の成れの果てがお前だというのか?」
「そうとも言えるし、違うともいえる。我は彼のヒトが生きておった時に似せて作られた記憶の入れ物、人造生命のひとつ。知識の秘匿を目的に造られたこの洞の中には、彼のヒトが守ろうとした思い出で満たされておる」
 聞き慣れぬ単語に首を傾げたレベリアを見て、骨もまた、ない首を傾げて彼を見る。何も収まる物のない眼窩の奥には深い闇が渦巻いているかのようだ。
「人造生命?」
「ヒトに作られた命の模造品をそう呼ぶ。主とも近しいと思ったが、当てが外れたか? 死と闇に祝福されし家の児よ。……しかし、この屋敷に我が声の聴けるヒトが来るとは随分と久しい。主は何を求めにこの城へ訪れた?」
 躊躇したレベリアの心でも読み取ったか、竜骨――フルヒトの亡霊はまたしても乾いた音で笑った。
「そう警戒することも無かろうよ。手も足もない骨に何ができるかね。まあ、先ほどから住民共が慌ただしく出入りを繰り返しておったから、凡その当たりは付く」
 フルヒトは光の筋を引いて小さな本棚の前まで行くと、一冊の本を顎で示す。それに従って抜き取った書物にはタイトルが記されておらず、しっとりとした手触りの革表紙が、彼の手の中でぬめった光を放っていた。
 音を立てて本棚の一部が横へと滑り出し、隠し通路への入り口を覗かせる。
「ここは昔、特別なヒトを閉じ込めておく場所であった。常ならばこの入り口はパンドラによって守られておるが、奴もまた、準備に忙しいらしい。贄の子の隠された部屋には幻術が掛けられておるが……その犬がおれば問題は無かろうて」
 フィオナは元気よく吠えて尻尾を振り、先導するように闇の中へと身を躍らせた。
 犬の前足が闇の中で細い糸に掛かり、誰も気づくことなくふつりと切れて消える。犬がどんどんと奥へ行こうとするのを、慌てて首ひもを引っ張って立ち止まらせたレベリアは、仲間を呼びに行くために扉へと向かった。



 屋敷二階の奥、流れる音楽と共にネメジスの私室で戯曲小説を読み上げていた女は本から顔を上げた。
 パンドラの頭の中で鈴が鳴る、仕掛けた罠に獲物が引っ掛かったのだ。朗々と流れていた声が途切れたが、如何したと問いかけることもなく黒い婦人は腰かけた安楽椅子に身を預けている。
「奥様、やはりあの方たちの目的は贄のようです」
「そのようね。いつものようにぼやけていた視界だったけど、塔に入るのがわかった」
 深緑の義眼は外されて何もない虚は閉ざされている。目の見えぬ彼女はヒトの魔力の流れを見ることができ、また、獣の眼を通じて世界を見ることができた。
 術者である彼女の眼、フィオナは幻術の影響を受けず、他者の魔力の質を彼女へと教えることができる。だが、ここ最近は飼い犬との相性が悪くなったのか、視界はぼやけたままのことが増えた。よって、パンドラの協力が必要になっている。
「すぐに捕らえますか?」
「そうね、そうして頂戴。万が一にも、あの娘を持って行かれたら困るわ」
「かしこまりました」
 滑るように主の前を辞して廊下を大股で歩き去るパンドラの横顔は窓に映らない。ふと、窓の外から子供たちが歌うわらべ歌が聞こえてきて、女は十年前の儀式の日を思い出した。



 十年前。パンドラは儀式の立会人として、贄の子がその身を捧げる場所に居た。
 贄に選ばれていたのはヴォルフラム。左手には贄の証として、儀式を補佐するベラドンナたちの手により赤く古い印が刻まれていた。初代様――ケーラがその身に宿していたとされる印を模したもので、その実態は贄が逃げ出しても追跡できるようにと考案された、監視役お手製の呪印だ。
 儀式は手順通りに全て正しく行われ、黒い湖から現れ出でたソレにヴォルフラムが身を捧げれば、儀式は完全に終わるはずだった。
「討てッ!」
 突如儀式の間に響いた言葉に誰もが耳を疑った。その身を潜めていたリンドブルムの配下たち以外は。
 幾多の黒い魔術の矢が突き刺さり、ソレは苦悶の声を上げる。すぐさま控えていた黒衣のベラドンナたちが儀式の邪魔者どもを止めようとするが、当主リンドブルムが秘密裏に結成した、テオを筆頭に反旗を翻した者たち、毒花を散らした魔術師軍団は、ソレを打倒さんと魔術の矢を打ち込み続ける。
 贄として戒められていたヴォルフラムも素早く状況を理解すると術師たちをベラドンナから守り、リンドブルムもまた、彼らと共に隠されていた自らの自動人形と、持っていた武器を構えて参戦する。
 戦えぬ者どもは悲鳴を上げて逃げだし、静謐に満たされた儀式の間は騒然となった。
「何を、何をなさいます、当主様! おやめください!」
 困惑したパンドラは当主の足元に取りすがる。当主の行動はベラドンナにとってもパンドラにとっても理解できぬことだった。この地の神とも呼べる存在を殺すなど、パンドラにとって許されざる暴挙だった。
 儀式は成功していたのに、今やろうとしていることは全てを無駄に帰す行為だ。
 ――ソレを殺すことだけは絶対に許されない! 
 だが、当主はパンドラを引きはがして地面に転がし、その眼前に切っ先を突きつける。
「やめるのは貴様らの方だ、パンドラ! ……一体、何人の血と肉を喰らえば気が済むのでしょうね。古の魔女どもにはご退場願いましょうか! もうこれ以上、忌まわしい慣習を続けるのにはうんざりです!」
「な、なにを」
「知らないとでも思っていたのですか、この儀式本来の意味を! 魔女め、ここで殺してやるッ!」
 女の蒼い目は爛々と燃え盛り大きく見開かれ、今まさに頭上に掲げた長剣を女の心臓目掛け突き立てようとする。だが、喧噪を切り裂いて男の吠える声が響いた。
「動くなッ!」
「はなして! はなしてよぉ!」
「チィッ、大人しくしろ!」
「かあさまぁ! あにさまぁ! てお!」
 全員の視線が向かう先、赤い眼をぎらつかせた毒花の精鋭に守られながらも額に汗を浮かべたベラドンナの当主が掲げたのは幼子。腕を掴み上げられ、柔らかな喉元へ刃物を突き付けられながらも、小さな姿は男の手から逃れようと必死で身を捩っている。
「リーゼル!」
「な……!?」
 ヴォルフラムが驚愕に声を上げ、詠唱を続けていたテオが呆然と幼子を見つめて動きを止める。その視線は燃え滾るような激情の色を浮かべて毒花の当主――父であった男を睨み据えていた。
「貴ッ様ァ! レジーをッ……オレの妹をどうした!」
 吼える青年の声に気圧されながらも、男は吐き捨てるように叫び返す。
「兄妹そろって出来が悪すぎたんでな、処分したさ! おかげで余計な消費が増えた、コレを――」
 男は乱暴な所作で掴み上げた幼子を揺さぶった。脚は地面から離れ、痛みによって悲鳴が上がる。
「庇い立てて死ぬなど、どうかしている!」
「なんてことを! ログラル、仮にもお前の娘でしょう!」
「利用できるうちは我が娘だったよ、誰の股から生まれていようとな! ……さあ坊や、コレを助けたけりゃさっさとそこから飛び降りろ! アレの機嫌を損なって俺たち全員が死ぬ前にな!」
 身動きの取れない当主たちを勝ち誇ったように眺めまわすログラルが、少女の首に一筋の赤い筋をつける。みるみる内に溢れ出す赤い液体は地面に落ちる前に黒へと変わった。
「ログラル、その、その少女は……」
「リンドブルムの娘だ、こいつ等が隠してやがった。おそらく贄としては一等級だろうぜ、ヴォルフの次はこの娘になるだろう」
 女の目は大きく見開かれ、両の目にはただひたすらにリーゼルを映していた。舐め回すような視線にさらされ、怯えた表情でパンドラを見返す少女の中に流れる血の匂いを、女はしっかりと嗅ぎ分け歓喜する。
「(その容姿! リンドブルムには無かった匂い、赤い血を持つ黒い心臓、彼女こそが最後の贄!)」
 スキをついたテオが精鋭の一人を地面から生やした魔術の槍で貫き、踏み込んだヴォルフラムがログラルからリーゼルを奪い返した。
「出過ぎた真似をッ」
 怒りに歪んだログラルの、幼子をしっかりと抱え込んだ彼へと向いた目は紅く染まり、理性の光は失われている。
「するんじゃねェよ!」
 繰り出される黒刃に気づくのが遅れたヴォルフラムは、次にやってくるであろう衝撃に目を見開き娘を庇いこんで目をきつく閉じた。

「――ヴォルフ!」

 弟を庇い突き飛ばしたリンドブルムの胸に、刃は深々と突き刺さる。身に着けた衣服に大きく赤いしみが広がっていく。
 ソレを殺そうとしていたテオも、地面に突き飛ばされたヴォルフラムも、その腕で大きな瞳を見開いたリーゼルも、紅に目を輝かせたパンドラも、皆が息を飲んで儀式の間は静まり返る。
 彼女の口の端からは赤い雫が流れ、手にした長剣は地面に音を立てて転がった。
 静寂は二人分の悲鳴で破られた。
「姉上ッ!」
「かあさまぁ!」
 バランスを崩したリンドブルムの躰は花が折れるように黒い湖へと落ちていき、ソレは嬉々として彼女を飲み込んだ。あとに響くのは姉を喪った弟の慟哭と、母を喪って泣き喚く幼子の声。
 選ばれた贄以外が捧げられたことで儀式は不完全に終わり、アルジェベド家は当主を喪った。急遽、代わりとして弟のヴォルフラムがその椅子に座らされ、次代の贄の子は彼と同じく左手に赤い呪印を刻まれた娘、リーゼルに課せられた。リンドブルムの配下たちは殆どが粛清され、テオはその姿を消した。



 女の意識は過去から今へと舞い戻る。黒衣の毒花たちを引き連れて向かう先は蔵書館、併設された尖塔の上には贄を閉じ込めるための部屋があり、その入り口は女の魔術とネメジスの幻術によって守られている。
 塔の入り口、横滑りに開いた本棚の前では、武器を携えた青年がパンドラたちを迎えた。
「随分と早い到着だ」
「フィオナが呼び鈴をちゃんと鳴らしてくれたもの。気づかない馬鹿はいなくてよ」
 苦々しい表情で長剣を構えるセティの前方に赫い外套を翻したカタジナが現れ、毒花たちを相手に口の端から唸り声と共に火を零す。
「(今度こそ終わらせる、正しく終わらせる。贄はもう、この手の内にある)」
 一度は逃したが二度はない。歪に満ちてしまった深淵をもう一度開き、正しい形に満たして終わる。それだけが毒花の家を預かった女の願いであり、長年変わらず持ち続けてきた使命だ。
 ――≪最後の贄≫を奪われてはならない!
 窓から差し込む光は失せて、暗い館の中で黒衣たちが飛び掛かった。



「一つ聞きたいんだが」
 明かりを掲げて暗い通路を進みながら、レベリアは隣に漂うフルヒトに尋ねた。
 後ろではランドルフとハンクが自分達には聞こえない声と会話する彼に聞き耳を立てているが、通路が狭いためにうまく動けず、大柄なランドルフは些か窮屈そうにその背を丸めている。セティとカタジナは退路の確保役として入り口に残った。
「あの伝説は本当なのか。その……お前が若い女にうつつを抜かして、魔女の怒りを買った、とかいう」
 その言葉にフルヒトは笑った。虚ろな笑い声は狭い通路の中に反響して空気を揺らすが、その声が聞こえない二人は不思議そうに動く骨を眺めている。フルヒトはまだ笑いの残る声で言った。
「なるほど、なるほど。そのように伝えられておるか。いやはや……」
「やはり違うのか」
「違うとも一概に言い切れぬ。そうじゃな、話して聞かせよう闇の児よ。この話を語るのは、これで三人目……あの娘を助けるためにも、主は知っておいた方がよかろうでなあ」
 竜骨は呻いていたかと思うと、ぽつりと語り始めた。

 ――造られた命が語るに曰く。昔、この土地にはラアナと呼ばれる魔女が棲んでいた。
 ヒトとは異なる成り立ちを持つ魔女は、この土地の住民たちからは恐れ忌み嫌われていた。魔女もまた、己とは全く違うヒトを軽蔑していた。
 ある時、北から新しくやってきた領主が、狩りに夢中になって彼女の棲む荒野に迷い込んでしまった。魔女は最初、哀れな領主を殺そうとした。だが彼が持つ異郷の道具に魅せられた。魔女は彼に異郷の話をするように命じ、彼は命じられるままに話を聞かせた。
 そして段々と魔女はヒトに対する感情をやわらげていき、彼自身にも惹かれていった。領主も人々が語る姿とはまるで違う魔女を好きになり、二人は夫婦になった。
 最初は怯え嫌っていた住民たちも、領主の説得と魔女の努力により、ゆっくりとだが魔女を受け入れた。二人は幸せだった。輝かしい幸福がそこに在った。
 だが、幸せは長くは続かなかった。
 ラアナは毒そのものであり、その毒は彼女の精神すら蝕んだ。ヒトの身では知り得なかったことだが、彼女は魔女として在るには些か不完全な存在で、生きていくためには魔力を持つ血と肉が必要だった。
 近づいてくる死の足音に恐怖した魔女は、いつしか夜な夜な魔力を求めて人々を食い荒らし命を繋ぐ化け物へと成り果てた。
 とうとう魔女は領主を脅して、ある存在を造り上げる。それはヒトの形をしていたが決してヒトではなく、だが確かに生きている存在。試験管を母体に造られた、黒く脈打つ心臓を脆く白い肌が覆った、赤い血を持つ家畜の命。

 魔女と同じく蒼い目と桃色の髪を持つ、最初に造られた女の名をケーラと言った。

 魔女は創造物に命じる。
「私が力尽きることなく、私が決して命絶やすことないよう、お前はヒトと交わり、その血と肉を捧げ続けるのです。そうしてお前の全てを喰らいつくした時に、私は再び生を受けるでしょう」
 創造物は答える。
「はい、我が主。私は貴方の器、貴方の血であり貴方の肉。貴方の復活こそが私の望み」

「待ってくれ」
 足を止めたレベリアに合わせて骨もまた、動きを止める。その背と後ろを歩く親友に潰されて、ハンクは威嚇する鴉のような声を上げた。先導する白い犬は戸惑ったように振り返り、大人しくそこに座り込んで連れが動き始めるのを待つ。
「ちょっと、レベちゃん! 急に立ち止まらないでよ!」
 彼の非難はレベリアの大声に掻き消される。
「では……今行われている儀式は、呪いを封じるためのモノではなく。魔女を生き長らえ復活させるための儀式だというのか!」
 狭い通路へ朗々と響く言葉に二人は顔を見合わせた。明かりを持つレベリアの手は戦慄いて、三人と一匹の影を揺らめかせる。
「応とも」
「妖魔が狂暴化するのは!?」
「毒の魔女から南の妖魔は生まれた。いわば奴らにとって魔女こそが母であり、祖である。彼女が危機に瀕し呼びかける声に反応して、奴らは母をヒトから守ろうと凶悪さを増していく」
「な……」
 空いた口が塞がらぬとはこのことだと息を詰まらせる。呪いを封じるためと言われ続けてきた儀式が、あろうことか魔女の復活儀式だったとは!
「愚かであった」
 骨は語る。監獄の中で最後の懺悔をする罪人のように、声は震えていた。
「愚かであったとも我が主は。伝承は捻じ曲げられ、ケーラを寵愛しラアナを謂われなく処刑しようとしたが故に贖罪を求められたと伝えられておるが、実際は違う。我が主は苦しむ領民のために殺し合った、かつて愛した女とな。そしてフルヒトを殺した魔女は自身の目的を果たそうと、この地に呪いをかけた。命を繋げる贄を捧げなければ、己の声一つで、この地は妖魔の軍勢に覆われると領民を脅すために」
 人々の口から口へと語られる伝承の裏に隠された真実。恐怖に歪められたおとぎ話の結末は、多くの命を奪い続けながら、滑稽な悲劇を生みだしていた。
 この場にイドゥリを連れてこなかったことをレベリアは後悔する。――あの少年なら捻じ曲がった伝承ではなく、嬉々として今聞いた話を伝え残すだろうに!
「この事実を他に誰が知っている?」
「我自身が直接語れたのは、守り人の中では二人だけ。一人は妖魔と魔女に戦いを挑んだがあえなく破れ、一人は魔女を殺そうとして食われた」
 レベリアが口を開きかけたその時、遠くなった入り口から剣戟と争う音が聞こえてきた。狭い通路を慌ただしく駆けてくる他の足音を引き連れながら、まっすぐにこちらに向かってくる足音は、かつ、かつ、と一定のリズムで近づいてきている。
 目くばせをして走り出し、雑多にモノが詰め込まれる物置となった牢屋たちが並ぶ通路を抜けて、多少開けた小部屋に飛び込む。
「チッ、追いつかれるな。旦那、先に行ってリーゼル引っ張ってこい」
「すーぐ戻ってきてよ? たぶん、セティとカタジナも苦戦してる」
「わかった。……気をつけろよ!」
 暗く狭い廊下を近づいてくる雑踏を睨みつけながら、二人はそれぞれの得物を構えた。